〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/13 (火) 不 戦 の 人 (一)

彼は桜間さくらますけ 能遠よしとう であった。
この船島の時忠も 「── こよいあたり、必ず、すけ が姿を見せよう。来なければならないはず」 と、ついさっきまで。時実へつぶやいていた。その能遠だったのである
だから、時忠は、こうしている間にも、桜間ノ介の来ることを、ひそかに予期していたことかもしれない。
ありぃは、彼がどこかに潜んでいたのを、時忠だけは、 に、知っていたのかも分からない。
いずれにせよ、すけ が、これへ来たのは、偶然ではなかったのだ。が、偶然以上の危機に来合わせたとはいえる。彼の姿は、何か、運命の使者といったように ── 四囲の凶刃をしずかに見まわし ── やがてその半首はつぶり の下から不気味な錆声さびごえ を放った。
「能登どのの御家来たち。犬死を求めてどうするのだ。── 大理だいり どの(時忠) の仰せだ、ありがたいと思うて帰れ。さ、 う帰れ。・・・・帰らぬか、犬死したいのか。死にたくば出ろ、 せてくりょう」
すると、黒い群れの中で、
「な、なにやつだっ、おのれは」
える者があった。
半首はつぶり の下で、彼の歯が、あざわら った。
「名は申さぬ。かかる所で名乗っても始まらぬ。が、 内大臣おおい殿との (宗盛) には告げおくもよい。屋島を立つ朝、黒煙くろけむり の下にて別れた男と似たる者が、忽然こつぜん と、こよい船島に見えて候う ── と」
「た、たわ言に耳かすな」
えは続いて、
「たかが一人ぞ。まず、その曲者しれもの から先に討って取れ」
「待てっ」 と、また、するどく 「よう、眼をあいて、辺りを見ろ。おれに続く者はまだいくらの後ろにいるぞ。それでもなお、強がるか」
「な、なに」
もいちど彼らは自身の中にうろたえと恐怖を起こした。
咄嗟とっさ に、刺客の一角から、脱兎だっと の影を見せて逃げ出す者が出た。 「ほかにもいるぞっ」 とたれかが叫んだ。崩れた点影は意気地のない争いを見せて、舟をおいてある浜の方へ、こけまろ んで行った。
「追うな」
と、半首はつぶり は、どこかえ向かって、命じた。
虚言ではなく、人数を連れていたらしい。が、縁へ向かって、地にひざまずいたのは、彼一人だった。
「── 桜間ノ介でおざる。ここ幾日か、お便りも欠きましたが、よいおりに来あわせました。おつつがもございませぬか」
「おう・・・・」 と、内の暗い中で、時忠の声が 「・・・・すけ か。待ちわびていたぞ。時実、時実、灯をともせ」
「はっ、ただ今」
「介よ、内へ上がれ。そこでは、話もなるまい。近う」
「ごめん」
桜間ノ介は、縁へ上がってすわった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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