彼は桜間
ノ介すけ 能遠よしとう
であった。 この船島の時忠も 「── こよいあたり、必ず、介すけ
が姿を見せよう。来なければならないはず」 と、ついさっきまで。時実へつぶやいていた。その能遠だったのである だから、時忠は、こうしている間にも、桜間ノ介の来ることを、ひそかに予期していたことかもしれない。 ありぃは、彼がどこかに潜んでいたのを、時忠だけは、眸め
に、知っていたのかも分からない。 いずれにせよ、介すけ
が、これへ来たのは、偶然ではなかったのだ。が、偶然以上の危機に来合わせたとはいえる。彼の姿は、何か、運命の使者といったように ── 四囲の凶刃をしずかに見まわし
── やがてその半首はつぶり
の下から不気味な錆声さびごえ
を放った。 「能登どのの御家来たち。犬死を求めてどうするのだ。── 大理だいり
どの(時忠) の仰せだ、ありがたいと思うて帰れ。さ、疾と
う帰れ。・・・・帰らぬか、犬死したいのか。死にたくば出ろ、斬き
っ伏ぷ せてくりょう」 すると、黒い群れの中で、 「な、なにやつだっ、おのれは」 と吠ほ
える者があった。 半首はつぶり
の下で、彼の歯が、あざ嘲わら
った。 「名は申さぬ。かかる所で名乗っても始まらぬ。が、 内大臣おおい
の殿との (宗盛) には告げおくもよい。屋島を立つ朝、黒煙くろけむり
の下にて別れた男と似たる者が、忽然こつぜん
と、こよい船島に見えて候う ── と」 「た、たわ言に耳かすな」 吠ほ
えは続いて、 「たかが一人ぞ。まず、その曲者しれもの
から先に討って取れ」 「待てっ」 と、また、するどく 「よう、眼をあいて、辺りを見ろ。おれに続く者はまだいくらの後ろにいるぞ。それでもなお、強がるか」 「な、なに」 もいちど彼らは自身の中にうろたえと恐怖を起こした。 咄嗟とっさ
に、刺客の一角から、脱兎だっと
の影を見せて逃げ出す者が出た。 「ほかにもいるぞっ」 とたれかが叫んだ。崩れた点影は意気地のない争いを見せて、舟をおいてある浜の方へ、こけ転まろ
んで行った。 「追うな」 と、半首はつぶり
は、どこかえ向かって、命じた。 虚言ではなく、人数を連れていたらしい。が、縁へ向かって、地にひざまずいたのは、彼一人だった。 「── 桜間ノ介でおざる。ここ幾日か、お便りも欠きましたが、よいおりに来あわせました。おつつがもございませぬか」 「おう・・・・」
と、内の暗い中で、時忠の声が 「・・・・介すけ
か。待ちわびていたぞ。時実、時実、灯をともせ」 「はっ、ただ今」 「介よ、内へ上がれ。そこでは、話もなるまい。近う」 「ごめん」 桜間ノ介は、縁へ上がってすわった。
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