ここに、置き忘れられた物のように、星明りの波間に、ぼやっと貌
を浮かべている海の中の一土壌がある。 平大納言父子が隔離されたまま獄裡ごくり
にひとしい牢愁ろうしゅう を余儀なくされていたあの船島
── という名すら知る人もない浮巣うきす
のような小さい島だ。 その夕べから宵へかけて。 時忠は、幽居の内で、黙然と端座したままだった。波と風のほかは、声もない天地から、何か、何ものをも聴き
き逃すまいとするように、体じゅうを、耳にしていた。 「・・・・はて」 彼は、さっき、その眼で見た。 すぐそばの彦島から一門の全水軍が、文字ヶ関の方へ向かって行った舟影を。またその中にあった紛まぎ
れもないお座船の影を。 「時実。・・・・ついに迫って来たな、最悪な最後の日が」 「にわかに、さし迫って来たらしゅうございまする」 「見たか、一門の出勢を」 「見ました。ふたたび地へ帰ることのないあのたくさんな船影かと」 「わそも瞼まぶた
が熱うなった。故入道どののおわした世盛よざか
りが思い出された。何か、平家というものを乗せて天外へ急ぐ魔群の雲が眼の前を通る心地がした。この時忠のごときでは、ひきとどめんとしても止と
まらぬ “時の大車輪” が波上を巡って行くようであった。・・・・ああ、ぜひもない果てではある」 「・・・・けれど、父君」 時実は、ずり寄って、 「まだまだ、そうお見限りまでのことではございますまい。父君でのうては出来ぬ大事な御使命も残されておりますものを」 「うム。いかなる汚名を身に着ても、そこは果たす所存でおるがの・・・・坐して平家の末路を見る胸の辛さはいいようもない」 「それにつけても、桜間さくらま
ノ介すけ 能遠よしとう
は、どうしたのでございましょうな。ここを去って、いちど周防すおう
へ赴き、判官殿の御返書をここへ齎もたら
して来たきり、ふつりとまた、姿も見せませぬが」 「いやあの男のことだ」 時忠は、揺るがぬ自信を寄せているもののように、 「こよいあたりは、相違なく姿を見せよう。彼がここへ来るからには、おれども父子も、ただちに、すぐここを立たねばならぬぞ。・・・・時実、粥かゆ
でも腹一っぱい食べておこうよ。粥は煮えているか」 「あ、うかと忘れておりました。たそがれ、漁小屋の芦屋が、裏の水屋へ見えましたので、夕の炊かし
ぎを頼んでおきましたが」 時実は、暗い厨くりや
(勝手元) の方へ、紙燭をかざして行った。 粥は煮えていた。炉ろ
の湯もわいている。── が、芦屋は見えない。 近ごろはやや馴れて、よく水屋の手伝いなどもしてくれるが、奥の父時忠の姿には、今もって、畏おそ
れをなし、用事がすめば、いつも音さえ立てずに帰ってしまう。 時実は、自分で膳部ぜんぶ
をととのえ、父とともに、夕餉ゆうげ
を終えた。そしてまた、椀わん
や木皿きざら などを、侘しげに、洗いなどしていると、遠くから迅はや
い跫音あしおと が耳を打って来、 「讃岐さま、讃岐さま、たいへんです。父てて
が、わたしの父親てておや が、斬き
られました」 彼女の死人のような白い顔が、戸口に見えたと思うと、わっと、内へ泣きまろんで来た。 |