彼自身から、孤父経盛と言った一語には、たれもが、しゅんとした感に打たれた。 悲痛な思いをその人へ寄せずにいられなかった。──
だがその経盛の戯 れ言ごと
は、かりそめにせよ、珍しいことだと、みな思った。 また、それが、はしなくも、諦観ていかん
の刃となって、人びとの絆きずな
にある煩悩ぼんのう やら憂悶ゆうもん
を、ふと、断ち切ったもののようであった。 たれの心の翳かげ
からも何か、からっとしたような息づかいが生じ、自然な笑いが座に浮かび出て来た。 「あわれ、かかる夜はまたとあるまい。一曲弾だん
じよう。神主、琵琶びわ はあるか」 教経が言う、資盛も言う。 「さらば、笛は、それがしが持とう」 「おおよ」
と、これまた、めずらしく、経盛までが、 「笙しょう
は、この老人が仕らん。鼓は門脇かどわき
どの、勤め給え」 「さて、琴は、たれが弾ひ
く?」 すると、廻廊の端で、 「わらわでおよろしければ、わらわに、お命じ給わりませ」 という女人の声がした。 見ると、知盛の妻の妹、治部じぶ
卿きょう ノ局つぼね
であった。 それと、もう一人、若い女性が、一そうつつましげに、控えていた。 座の内から、宗盛が、声のした方を見やって、 「治部卿ノ局と、尼公あまぎみ
の侍女、玉虫ではないか」 と、あやしんだ。 「はい・・・・」 「何しに?」 「尼公あまぎみ
のお筆を持ちまして」 「文使ふづか
いか。・・・・どれ?」 宗盛はさっそく、尼からの結び文を一読した。そして、うなずきの下に、 「琴、つつがなく、すんだそうな」 と、ひとり言のように座へ言った。 けれど、そのひとり言へ、辺りの顔がみな、同じようにうなずきを返した。──
すんだ。それだけで、すべてが、たれにも分かっていたらしい。 尼からの使いといえば、おそらく、幼帝のおん身と神器を他の船へお遷うつ
し申し終わったことの報告だったに違いない。けれど、たれも口には出しもしないのである。 そして、黙々と、管絃の座についた。 琴には治部卿ノ局がすわるかと思いのほか、局は、しいてその役を、玉虫にさせた。 ──
屋島ノ浦以来、その黛まゆ に、淋しげな翳かげ
をぬぐったことのない玉虫だった。なぜあのおり、敵の余一宗高とやらの矢が、扇にかなめを射くだいて、この身の胸に当らなかったのかと、恨みにしているような眸め
の濡れを、いつも睫毛まつげ の蔭に伏せている彼女であった。 「・・・・ま。めっそうもない」 と、玉虫はもとよりかたく辞した。 一門の端ではなし、たかが二位どのの侍女などの身で、という畏おそ
れもあったし、心の浮かない色でもある。 が、、彼女の才は、ここの人びとも知っていたので、 「玉虫せよ」 と、みなすすめた。 否み難くもあったし、玉虫の胸にも、ひそかな今生こんじょう
への名残もあったことであろう。ついには彼女も琴の前に坐った。 厳島いつくしま
でも、彦島でも、管絃はいくたびとなく行われたが、なぜかこの夜の管絃ほど、ひたと、一致したことはない。いつかの夜のような乱れもなかったし、鬼気もなかった。楽器それ自体ばかりでなく人びとの面おもて
も澄みきった態であった。まことに、生死一つを誓って明日を待つのみとしている一門の心をさながらに奏かな
で出していた。 ── と、和布刈 めかり
の裏山から六、七名の物見の武者が、まろぶように駆け降りて来、 「遠くに、敵の船影らしき動きが見えまする」 「御油断はなりませぬぞ」 と、心ない大声で廻廊の下から怒鳴った。 「なに、敵が見ゆると?」 断絃だんげん
の驚きとはこれか。ばらっと、断き
れ絃いと が跳は
ね散ったように、人びとの影は、一せいに座から起ち、 「どの方角に?」 と、廻廊へ出た。 山うえから見ておりますに、はるか満珠まんじゅ
、干珠かんじゅ の島に、漁いさ
り火び にもあらぬ灯が、消えつ点とも
りつしており、また、串崎の蔭より東の長門岸ながとぎし
に添うて、一群の串崎舟が、しきりと、やみを漕こ
ぎ進んでまいりまする」 「さては、はや」 宗盛、教経らは、まっ先に、階を下りた。 けれど、知盛は、その背へ向かって、 「いやいや、まだ満潮みちしお
には間がある。東から西へ、早潮のさかりとなるのは夜半ごろです。その間こそ、警戒いましめ
を要しましょうが ── 陸くが
ならぬ船戦ふないくさ に夜討は不利。もし仕掛ければ、仕掛けた者の破れでしかありませぬ」 と、落ち着いて言った。 しかし、状勢は刻々と、緊迫してきた。串崎舟の動きも、それが正しい功進でなく、単なる敵の瀬ぶみとしても、ようやく敵との接触の近い予告の一つには間違いない。 知盛も、足をはやめた。 諸将の影も、それぞれ、磯石のあいおだを跳と
んで、あわただしげに、わが船へとかえって行く。 宗盛は、当然、さきのお座船へ戻った。 日月の幡ばん
、白木の賢所造かしきどころづく
りなど、元のままだが、もちろん帝も女院も、すでに、それにはおいでなかったのである。 |