〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/06 (火)  くら え (四)

そう考えて来ると、神殿に居並んだ影の中には、みかども、女院もお見えにならず、二位ノ尼もいなかった。そうして座の宗盛と磯との間を、のべつ腹心の者が往き来しては、その耳もとへ、何事かささやいたり命を受けて、また、磯の方へ駈け去った。
同様に、能登守教経も、たえず郎党を走らせたり、何事か復命をうけなどして、座にいても、どこか、落ち着かない風であった。
けれど、さすがこの宵ばかりは、たれのおもて も澄んで悲壮な色をたたえていた。座は水の底にあるかのような冷気を持ち、やがてのこと、神事もすんで、人びとの前に神酒みき土器かわらけ がおかれても、にわかに、手へ取ろうとする者もなかった。
「いざ、おすごしを」
魚彦なひこ のすすめに、諸将はややくつろぎ顔を見せ、杯をくちびる へはこんだ。
その酒の香、うつし身の味覚も、これを限りかと、たれしも思わずにいられなかったことであろう。 めば酌むほど、せき とするだけであった。
「もう、何の心残りもない」
宗盛が、つぶやいた。
経盛や盛国などの老将は、さっきから一語も吐かない。
いわぬはいうにまさる思いを抱く姿 ── と見れば見えもする。
「あすこそは」
しきりに、気を吐くのは、能登守教経だった。
らんとしたまなこ のふちは、やや酔いの色を見せ、
「九郎が首は、きっと、この能登が手に挙げてお見せする。鬼となっても」
と、ひとり杯を重ね、また、いった。
「のう、黄門こうもんきみ 。── この中で、敵の中軍へ迫り、九郎判官の首に見参せんほどな豪の者は、まずあなたか、この能登よりほかにはあるまい。おぬかりあるな」
「おう、和殿わどの とても」
知盛は、微笑しつつ、おなじことばで。
「抜かり給うな」
「いうにやおよぶ」
「敵もさる者ぞ。一ノ谷、屋島のかけひき、あれ見ても、油断はならぬ」
「なんの、あれはくがいくさ 。まだかつて、九郎義経が、船戦ふないくさ の手練とは、人も沙汰したことはない。負くるものかは」
教経は、癇症かんしょう な子のように、土器かわらけ のふちを み砕きそうな顔して、ぐいとまた一口飲んだ。
そこへ、神主の魚彦は、懐紙やすずり などを持ち出して来て、ひとの生死もよそ事のように。
「かく御一門晴れの場にお臨みあって、さだめし御感慨もしげ かろうかと拝察されまする。なんぞ御興ごきょう のお歌なりと、ひと筆、お染めおき給わりましょうや」
「・・・・・・・」
黙って、修理大夫経盛がまず、筆をとった。
教盛も、資盛も、また行盛も、それぞれ、一首ずつの和歌を書き遺した。
たれの和歌も、武人の歌のようではなかった。都を想い、過ぎし日を恋い、また、以来一度も会っていない心の女性へ、夢にも通えと、歌いこめている辞世じせい であった。
「・・・・・どれ、お見せあれ」
主馬判官しゅめのほうがん 盛国もりくに が、資盛の歌を、のぞきかけると、資盛は少し顔をあか らめて、
「いや、つたない愚痴です」
と、袖の下へ、隠してしまった。
すると、つねに無口な経盛が、めずらしく、薄ら笑って、
「いや、御老台。新三位しんざんみ どの (資盛) のお歌は、都にある右京大夫うきょうだうふ ノ局へこそ伝えて しと願うたるお歌であろう。御老人のあなたや、子もなきこの孤父こふ 経盛には、縁もないし、わか りかねる歌かも知れぬ。ひとの め事、年甲斐もなく、のぞき召さるな」
と、かろい冗談をいった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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