そう考えて来ると、神殿に居並んだ影の中には、みかども、女院もお見えにならず、二位ノ尼もいなかった。そうして座の宗盛と磯との間を、のべつ腹心の者が往き来しては、その耳もとへ、何事かささやいたり命を受けて、また、磯の方へ駈け去った。 同様に、能登守教経も、たえず郎党を走らせたり、何事か復命をうけなどして、座にいても、どこか、落ち着かない風であった。 けれど、さすがこの宵ばかりは、たれの面
も澄んで悲壮な色をたたえていた。座は水の底にあるかのような冷気を持ち、やがてのこと、神事もすんで、人びとの前に神酒みき
の土器かわらけ がおかれても、にわかに、手へ取ろうとする者もなかった。 「いざ、おすごしを」 魚彦なひこ
のすすめに、諸将はややくつろぎ顔を見せ、杯を唇くちびる
へはこんだ。 その酒の香、うつし身の味覚も、これを限りかと、たれしも思わずにいられなかったことであろう。酌く
めば酌むほど、寂せき とするだけであった。 「もう、何の心残りもない」 宗盛が、つぶやいた。 経盛や盛国などの老将は、さっきから一語も吐かない。 いわぬはいうにまさる思いを抱く姿
── と見れば見えもする。 「あすこそは」 しきりに、気を吐くのは、能登守教経だった。 らんとした眼まなこ
のふちは、やや酔いの色を見せ、 「九郎が首は、きっと、この能登が手に挙げてお見せする。鬼となっても」 と、ひとり杯を重ね、また、いった。 「のう、黄門こうもん
ノ卿きみ 。── この中で、敵の中軍へ迫り、九郎判官の首に見参せんほどな豪の者は、まずあなたか、この能登よりほかにはあるまい。おぬかりあるな」 「おう、和殿わどの
とても」 知盛は、微笑しつつ、おなじことばで。 「抜かり給うな」 「いうにやおよぶ」 「敵もさる者ぞ。一ノ谷、屋島のかけひき、あれ見ても、油断はならぬ」 「なんの、あれは陸くが
の戦いくさ 。まだかつて、九郎義経が、船戦ふないくさ
の手練とは、人も沙汰したことはない。負くるものかは」 教経は、癇症かんしょう
な子のように、土器かわらけ のふちを噛か
み砕きそうな顔して、ぐいとまた一口飲んだ。 そこへ、神主の魚彦は、懐紙や硯すずり
などを持ち出して来て、ひとの生死もよそ事のように。 「かく御一門晴れの場にお臨みあって、さだめし御感慨も繁しげ
かろうかと拝察されまする。なんぞ御興ごきょう
のお歌なりと、ひと筆、お染めおき給わりましょうや」 「・・・・・・・」 黙って、修理大夫経盛がまず、筆をとった。 教盛も、資盛も、また行盛も、それぞれ、一首ずつの和歌を書き遺した。 たれの和歌も、武人の歌のようではなかった。都を想い、過ぎし日を恋い、また、以来一度も会っていない心の女性へ、夢にも通えと、歌いこめている辞世じせい
であった。 「・・・・・どれ、お見せあれ」 主馬判官しゅめのほうがん
盛国もりくに が、資盛の歌を、のぞきかけると、資盛は少し顔を紅あか
らめて、 「いや、つたない愚痴です」 と、袖の下へ、隠してしまった。 すると、つねに無口な経盛が、めずらしく、薄ら笑って、 「いや、御老台。新三位しんざんみ
どの (資盛) のお歌は、都にある右京大夫うきょうだうふ
ノ局へこそ伝えて欲ほ しと願うたるお歌であろう。御老人のあなたや、子もなきこの孤父こふ
経盛には、縁もないし、解わか
りかねる歌かも知れぬ。ひとの秘ひ
め事、年甲斐もなく、のぞき召さるな」 と、かろい冗談をいった。 |