やがて。 和布
刈かり 明神みょうじん
の奥深くに、みあかしの小さい光がゆらいだ。 衣冠した神官の魚彦なひこ
が、幣へい を捧ささ
げ、一門の願文を供えて、祝詞のりと
をあげる。 神殿の下をゆるがすような波音が絶えずあった。松風の音もとどろに、万葉人まんようびと
がここを 「隼人はやと の迫戸せと
の岩穂いわほ ──」 といった遠い昔そのままな思いがする。 ここの岬角こうかく
と、向こうの長門赤間ヶ関の岸とは、海面わずか六町十二間しかへだてていない。その狭い間の急潮流が、万葉人のいった隼人はやと
の迫戸せと ── 今の早鞆はやとも
ノ瀬戸せと なのだ。 壇ノ浦は、その口くびれを越えた所から、東岸一帯の、長門寄りの地名である。そしてひと口に、古来壇ノ浦の海戦といっているが、しかし、そのころの兵備や水軍なるものの能力が、海上だけで戦い得るものでなかったことはいうまでもない。 必然陸地に足がかりを持っていた。それを、源氏側から言えば、豊浦とよら
、串崎がその足場であったし、平家方の布陣から見れば、田野浦が第一線基地、和布め
刈かり が第二基地、彦島がその発足点と観み
ることが出来る。 ところで、彦島ではすでに充分、軍議もし尽くして来、万端の戦備もとげて出たはずなのに、またすぐ何目的に、和布め
刈かり へ上陸したものか。 ただの陣頭祈願であったろうか。 いやいや、この期ご
に及んで、祈願だけのために、初更しょこう
の一刻いっとき を、ここに全水軍が、碇いかり
を下ろしたとも思われない。 何か他に、重大な戦略上の要務もあったことだろう。味方同士の間でも、それは、極めて、機密裡に行われてゆき、その宵、和布刈の神殿にあった一門諸大将のささやきや密ひそ
かな行動は、まるで夢幻劇の中の人物のようで、いかなる意図の下に、何事が果たされたのか、たれにも、うかがい知ることが出来なかった。 けれどおよそ、こういうことは推お
し量はか ってもいいかと思う。 それは、幼帝のおん身を、ほかの船へ、遷うつ
しまいらせておく用意である。 なぜなら、合戦となりやいな、敵軍は必ず、お座船めがけて、鉾先ほこさき
を集中してくるに違いないからだ。 そのため、お座船の位置は、たえず味方の不安と惧おそ
れの中におかれ、敵には、好目標となるであろう。そして、どんな羽目から、お座船を敵手に拿捕だほ
されぬという限りもない。 ── で当然、一案が立てられたものと思われる。 日月じつげつ
の幡旗ばんき 、賢所かしこどころ
の守護陣など、 「ここに帝みかど
あり」 と敵には見せ、みかどの玉体と三種の神器は、ほかへお潜ひそ
め申し上げようという偽計ぎけい
。 そして、それを行うには、孫子そんし
の 「敵を詐あざむ くには、まず味方より」
で、彦島では、はなはだまずい。島の住民や、市いち
の雑人ぞうにん も入り込んでい、すぐ敵方へもれてしまう。 ──
そこで、和布 め 刈かり
の神殿に、魚彦なひこ の祝詞のりと
が聞こえていたころ、磯の方では、船と船とのあいだに、幼帝の御移乗と、神器の遷うつ
し渉わた しが、密々、運ばれていたものではあるまいか。 |