〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/05 (月)  くら え (三)

やがて。
和布 かり 明神みょうじん の奥深くに、みあかしの小さい光がゆらいだ。
衣冠した神官の魚彦なひこ が、へいささ げ、一門の願文を供えて、祝詞のりと をあげる。
神殿の下をゆるがすような波音が絶えずあった。松風の音もとどろに、万葉人まんようびと がここを 「隼人はやと迫戸せと岩穂いわほ ──」 といった遠い昔そのままな思いがする。
ここの岬角こうかく と、向こうの長門赤間ヶ関の岸とは、海面わずか六町十二間しかへだてていない。その狭い間の急潮流が、万葉人のいった隼人はやと迫戸せと ── 今の早鞆はやとも瀬戸せと なのだ。
壇ノ浦は、その口くびれを越えた所から、東岸一帯の、長門寄りの地名である。そしてひと口に、古来壇ノ浦の海戦といっているが、しかし、そのころの兵備や水軍なるものの能力が、海上だけで戦い得るものでなかったことはいうまでもない。
必然陸地に足がかりを持っていた。それを、源氏側から言えば、豊浦とよら 、串崎がその足場であったし、平家方の布陣から見れば、田野浦が第一線基地、和布 かり が第二基地、彦島がその発足点と ることが出来る。
ところで、彦島ではすでに充分、軍議もし尽くして来、万端の戦備もとげて出たはずなのに、またすぐ何目的に、和布 かり へ上陸したものか。
ただの陣頭祈願であったろうか。
いやいや、この に及んで、祈願だけのために、初更しょこう一刻いっとき を、ここに全水軍が、いかり を下ろしたとも思われない。
何か他に、重大な戦略上の要務もあったことだろう。味方同士の間でも、それは、極めて、機密裡に行われてゆき、その宵、和布刈の神殿にあった一門諸大将のささやきやひそ かな行動は、まるで夢幻劇の中の人物のようで、いかなる意図の下に、何事が果たされたのか、たれにも、うかがい知ることが出来なかった。
けれどおよそ、こういうことははか ってもいいかと思う。
それは、幼帝のおん身を、ほかの船へ、うつ しまいらせておく用意である。
なぜなら、合戦となりやいな、敵軍は必ず、お座船めがけて、鉾先ほこさき を集中してくるに違いないからだ。
そのため、お座船の位置は、たえず味方の不安とおそ れの中におかれ、敵には、好目標となるであろう。そして、どんな羽目から、お座船を敵手に拿捕だほ されぬという限りもない。
── で当然、一案が立てられたものと思われる。
日月じつげつ幡旗ばんき賢所かしこどころ の守護陣など、 「ここにみかど あり」 と敵には見せ、みかどの玉体と三種の神器は、ほかへおひそ め申し上げようという偽計ぎけい
そして、それを行うには、孫子そんし の 「敵をあざむ くには、まず味方より」 で、彦島では、はなはだまずい。島の住民や、いち雑人ぞうにん も入り込んでい、すぐ敵方へもれてしまう。
── そこで、和布 かり の神殿に、魚彦なひこ祝詞のりと が聞こえていたころ、磯の方では、船と船とのあいだに、幼帝の御移乗と、神器のうつわた しが、密々、運ばれていたものではあるまいか。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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