〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/05 (月)  くら え (二)

「灯を消せ。松明たいまつ も」
「敵は遠いが、夜眼にも、ふと、気ぢられてはならぬ」
たれかの声。
同時に、ばたばたと、松明たいまつ が踏み消され、白衣の神人じにん たちが走りまわって、室内のかす かな紙燭まで消そうとするのを、
「待て待て。そこの灯は消すな。敵の串崎くしざき から見えさえせねば大事はない。が、念のためぞ。廊の東面の はすべて垂れたがよいの」
これは門脇中納言 (教盛) の声らしかった。
その辺りに、和布 かり の神官橘魚彦たちばなのなひこ がぬかずいていた。内大臣の殿から直々じきじき の質問にたいし、何か答えていたのである。宗盛がただしたのは、
「この御崎へ、源氏はまだ一兵も揚がって来なかったか」
ということ。
また夕刻までこの附近に布陣していた味方の筑紫党つくしとう の船列は、早鞆はやとも瀬戸せと を出て、田野浦へ移動したはずだが、それらの士気はどうであったか。
この辺から逃亡したような将士はなかったか。神社へ狼藉ろうぜき を働いた兵などもあるまいな。等々のことであった。
神官の魚彦なひこ は、
「筑紫党の諸船もろふね も、田野浦へ進み出るのを見ておりましたが、一糸いっし 乱れず、士気は極めておさか んでした。陣抜じんぬ け、狼藉ろうぜき の兵などは、見聞きもいたしませぬ」
と、つつしんで答えた。
「さらば、安心よの」
宗盛は、左右の座にある経盛、盛国、教盛などの、ほの暗い中の顔を、と見こう見、つぶやいた。
そこへ、御崎へ上がるとすぐ後ろの高地へ上がっていた知盛、教経たちが戻って来た。そう二人も座に加わって、
「今は、敵のとって潮刻しおどき しく、月もないので、敵の義経がにわかに するおそ れはない。沖遠くにも、そのような気配は、まず見えませぬ」
と、観望して来たままを告げた。そして、
「また、対岸長門ながと の火ノ山や町屋の兵火も、夜には入ってから、暗くいぶ り沈んで見えまする。くが の源氏が、矢声もひそめ、ひたと、うごきを めたのは、思うに、明日あした に期すところがあるせいでございましょう。必ずや、明日こそは、源九郎義経みずから、その姿をわれらへ近々と見するに相違ありませぬ」
と、知盛は一同の覚悟をうながし、なお語をつづけて、
「いかなる約束事か、敵のうかがう戦いのしお も、味方が望んで出たしお も、期せずして、日まで一つとなりました。左右そう なく、明朝こそは、平家か源氏か、天下の帰着も定まりましょうず。・・・・が、それまでの半夜ほどは、なおゆる やかにおわすがよい。ここにて戦捷せんしょう祈誓きせい をささげ、神酒酌みきく みわけつつおたがい、あすともなれば別れ別れとなる露の身を、せめてしばし、いと しみ合うもよいでしょう」
と、沁々しみじみ 言った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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