その夜も月はなかった。星もまだ顔をそろえたばかりな宵
のくちといってよい。 豊前側ぶぜんがわ
の黒い山々の影と、長門岸ながとぎし
の高い陸影とは、相対して、ここの海峡を大きくかえあっている。海うな
づらは、ふところ広い谷あいに似、密々みつみつ
な軍いくさ
行動を起こすには、
「── おりもよし」 といいたげな潮の香のやみであった。 ついに、彦島ひこじま
を出た平家は、雨雲がはうにも似るその全水軍を、注意深く、豊前ぶぜん
寄りの水路に見せた。徐々に、文字ヶ関の御崎みさき
へ方向をとって行くらしく思われる。 お座船、大将船以下、全水軍の組織は、権中納言知盛とももり
の乗船が親雁おやがり
のようであった。すべての雁行がんこう
は彼の一船に従って動いていた。 そのことは、内大臣おおい
の
殿との
も、能登守のとのかみ
教経のりつね
も、どうにもならなかった結果であろう。 「船戦ふないくさ
に、おくれはとらじ」
と常に気負う教経などは、特に、知盛の指揮下にただ動いていることは、その逸はや
り気ぎ
をもどかしくしたに違いない。 しかし、この海峡の特殊な潮しお
ぐせや水路にくわしいことにおいて、勝気な彼も、黄門こうもん
ノ卿きみ
知盛には、一歩をゆずらないわけにゆかなかった。 知盛にとれば、この海峡も去年以来、三河守範頼の軍をあいてに、幾たびとなく漕こ
ぎ馴れ踏み馴れている歴戦の水面だった。早瀬、渦渦うず
の難所、潮の漲落ちょうらく
、その刻限まで、そらんじていたのはいうまでもない。
で、その宵の出動にしても知盛は、潮の差さ
し退ひ
きを度外視していなかった。当日の満潮時は、申さる
ノ下刻げこく
(午後五時)
前後であり、やがて酉とり
、戌いぬ
ノ刻こく
(午後六時から八時) のあいだに、潮は西の外洋玄海から、東の瀬戸内の方へ、次第に落潮を早めていた。 それを計算に入れ、全水軍は帆も張らなかった。すべり入るように、文字ヶ関村の御崎みさき
へ、近々と、その群影を塗りつぶした。 知盛の船には、紅くれない
の大旗のほか、“伊都岐いつき
嶋しま
大明神だいみょうじん
”
などの神号仏名の大のぼりがひるがえっていた。旗艦の目印めじるし
でもあったろう。その船上からであった。やがて松明たいまつ
か何かの火花がしきりに火合図を闇に描いている。── と、船列すべてから水音があがった。一せいに碇いかり
を下ろしたのである。 すると、御崎みさき
の磯いそ
へ、幾組とない松明たいまつ
と人影が、乱れ上がって行くのが見えた。そして、それから小半時こはんとき
の後には、内大臣おおい
の殿との
以下、一門諸大将の姿は、余さず、御崎みさき
の突端にある和布め
刈かり
神社じんじゃ
に集まっていた。 |