〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/10 (金) 血 ぬ る る 芝 

(安田作兵衛は自分を突き伏せると同時に、良人の方へ立ち向かって行ったのだ・・・)
そう思うと、御前は倒れた位置から頬をめぐらして階段口をさがした。
立つことも歩くこともできなかったが、眼と耳とはまだ生きている。
(どうぞ良人が引きあげていてくれますように・・・・)
しかし、ようやく芝生に伏したままでさぐりあてた良人の姿は、いぜんとして階段口へ片足かけた以前のままの姿勢で残っている。
白い綾衣姿 (アヤギヌスガタ) が、しだいにハッキリと見えて来ているのは暁近いせいであろう。
(困った殿・・・)
そう思いながらも、何かしらその姿は犯しがたい荘厳さをたたえてこの世の汚濁 (オダク) の前に立ちはだかっているようでもあった。
「安田作兵衛。みしるしちょうだいに参上仕った。いざ尋常にご勝負を!」
作兵衛はその時すでに槍を杖にして、堂縁の上にあった。そして、信長の右手からじわじわと爪先にじりに穂尖をつけて迫っていく。
信長は微動だにもしなかった。じっと何か庭先の一点を見つめている。その視線の先は・・・・と考えて御前はハッとした。
信長の視線は草に伏したまま動かなくなっている、自分の上に落ちていたのだ。
(あ、危ない!)
おそらく脾腹に傷口から、こんこんと血潮が大地に吸い込まれているからであろう、しだいに感覚も遠のいてゆく中で、思わず御前は叫びそうになった。と、その危ない一髪の危機の中へ、もう一人の人影が割って入った。
「森蘭丸じゃ! 逆賊来いッ」
「おお蘭丸か・心得たッ」
作兵衛は舌打ちして、蘭丸に対してゆく。槍は双方から稲妻のようにはげしくくり出された。
全身に傷をうけ、髪をふり乱した蘭丸のこれが、最後の死闘になろう・・・・と思ったときに、もつれた槍がカランと宙で音を立ててサッと離れた。戦い疲れた蘭丸の体ははずみを喰ってドッと縁へ尻餅ついた。
と、その瞬間に、濃御前を見つめていた信長の視線は、すーっとそれた。
視線をそらすと、信長はもううしろは振り返らなかった。はじめて奥へ向かって歩き出したのである。
奥の寝所へ通ずる小障子は、侍女たちの残していった中の灯りを映して白い光の輪を描いている。
「右大将!返させ給え」
作兵衛は、あわてて信長に追いすがった。信長はしかし、見向きもしなければ歩調も変えなかった。
サッと灯りが畳のこぼれ、障子はまた何事もなかったかのように閉まってゆく。
安田作兵衛はその障子に体ごとぶつけるようにして槍を突き立てた。
「たッ」
手ごたえの代わりに、跳ね起きた蘭丸が、ころがるように駈けて来て、のめりざまに石づきで作兵衛の脛を払った。
「上様!」
と、蘭丸は絶叫した。
「敵は一歩も近づけませぬ!心おきなくご最期を・・・・」
それは、芝生の中央に倒れたまま、遠退く意識と闘っている濃御前の希いが、そのまま蘭丸の口をかりてほとぼしったかのような言葉であった・・・・・・。

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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