〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/11 (土) 焔 に 意 思 あ り

蘭丸と作兵衛の死闘は続いた。
「──夜明けぬ内にぜひとも信長の首級をあげよ。ししてその首級を夜が開け放たれた時には、三条大橋のたもとのさらして京童 (キョウワラベ) に見せねばならぬ」
信長の首級こそ、明日からの天下の主が誰であるかを確認させる無二の証拠なのだ。
光秀に督促されて、左馬介秀満は、三宅孫十郎、安田作兵衛、四天王但馬守などに厳命して奥殿へ斬り込ませてあったのだ。それだけに、信長の姿を目の当りに眺めた作兵衛の焦りはなみなみならぬものがあった。
今一歩のところで蘭丸のためにさえぎられ、小障子の向こうに信長ありと知りながら、近づくことができないのだ。
「うぬッ、今こそ思い知らせてくれようぞ」
何の逆賊が狗め、上様ご生涯の邪魔立てまでしようとか」
「云うなッ、暴虐無慈悲な信長は、天下万民の敵なのじゃ」
「片腹痛い。うぬらに上様のお志がわかってたまるか。来いッ」
作兵衛も必死であったが、いまは側近ただ一人の蘭丸の気負いは鬼神も避ける凄まじさであった。
袖は裂け、袴は千切れ、手も足も肌着襟足も血と汗でしぼるように濡れている。
手傷の数は、二十創に近かった。それでいて未だ死も許されない蘭丸なのだ。
(上様をさわりなく生涯させなければ・・・)
蘭丸には、信長が最後の最後まで寝所へ引き取りことを拒んだ意味がしだいにハッキリとわかって来た。それは濃御前が危惧したように光秀の出現を待つのでもなければ、秀満に痛罵を浴びせようと考えたのでもなかった。
(これが武人の真面目なのだ・・・・)
時に死は、生よりも遥かにやすい。もし現実の厳しさに圧倒されて、必要以上に早くやすきについていったら、それこそ脅威だ怯懦 (キョウダ) のそしりを免れまい。
謀叛したのが光秀だと知った時に、
「──光秀ならば手落ちない」
そう呟いた信長なのだ。手落ちがないとは、生きて脱出の望みはないということであり、死はその時から決定的になっていたのだ。
しかし信長は、その決まった悲運の最期の一秒までを、鍛えぬかれた武将とし、人間としてがっしりと体認してゆこうとさいているのだ・・・・そう思うと、蘭丸は、
(さすがは上様!)
いまさらのように敬慕の念がわきあがり、彼自身もまた、誰も見ている物の無い世界で、最後の瞬間までを、信長のように武人らしく闘おうと思い定めている。
蘭丸はついに作兵衛を再び堂縁へ突き戻した。それはもはや肉体の力ではなかった。青白い焔をあげて燃え狂う、凄まじい気力の不思議であった。
作兵衛を欄干際に追いつめると、
「やっ!」
蘭丸は微塵になれと胸板めざして槍をふるった。作兵衛は避ける間がなくて、パッと欄干を越えて宙へ飛びすさり、
「あっ!」
双方が思わず一緒に叫んでいた。
一方は突き損じて体ごと欄干にぶつかった驚きの声であり、一方は欄干越えに庭に飛び下りて、切り石で畳んだ雨滴れ落ちの小溝へ足を踏み込んで転倒した狼狽の声であった。
そして──作兵衛があわてて起き上がろうとした時に、欄干に片足かけた蘭丸の槍がくり出された。
「ウーム」
「ウーム」
こんどは双方から低い苦痛のうめきがあがった。作兵衛は蘭丸に草摺の間から左の股を突きぬかれた呻きであったし、蘭丸は、とっさに抜いて横に払った作兵衛の剛刀で右脚を膝の下から斬り落とされていた呻きであった。
「む・・・・む・・・・無念・・・・」
蘭丸の鋭い声が尾を引いた。と、その最期を合図のように、奥の障子がカーッといちどに明るくなった。
信長は見事に自害してのけると、そのまま寝所へ火を放ったのだ。それは全く奇蹟に近い計算で、みる間に紅蓮 (グレン) の焔となり、信長の遺骸をそのまま包み込んで、左股をしばった作兵衛が、首を得ようとして再び近づいていった時には、もはや、どうにも踏み込みようのない猛火に代わってしまっていた。作兵衛は歯ぎしりして口惜しがったが、信長の首級はあきらめるよりほかになかった。
もし光秀の手落ちと云えば、これだけだったが、この大きな手落ちこそ、たった十三日間の天下で終った光秀の運命を暗示する手違いだったとも云えよう・・・・
夜がほのぼのと明けだした。
もう濃御前も草の上で息絶えている。
その死骸はいぜんとして若く、いまにも笑い出しそうに静に見えた。それなればこそ、当時の記録に大勢の男達に混じってらだ一つ女性の屍体があったが、それは二十八、九とも見える艶やかな姥桜で名前をおのうという老女 (侍女)(カシラ) なそうな・・・・と残っている。
それが信長の室であろうとは、誰も想像つかなかったからであろう

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ