〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/10 (金) 蝮 婦 道 (二)  

濃御前はその時になって、はじめて信長の寝所へ退かぬ心がわかった気がした。
(あるいは良人は、この場に光秀の現れるのを待っているのではあるまいか・・・?)
もじそうだったら退くはずはない。最後にみなの前で立腹 (タチバラ) を切って見せる気かも知れない。
濃御前は思わず二、三歩良人に近づいた。
ここで光秀か、それに代わる寄せ手の大将に悪罵 (アクバ) を投げたい妄執にかられたら、それこそ信長の恥辱のたねになってゆこう。
というのは、光秀は、自分の功を誇るために、信長の首級を必ず三条河原にさらしものにするに違いない・・・・と、思えるからだった。
(この場合、どんなことがあっても首級だけは敵に渡してはならないのだ・・・)
と、しぐ眼の下で、
「上様、お先に・・・・」
まっ先に山田弥太郎が虚空をつかみ、堂縁では、力尽きた高橋虎丸が、
「無念!」
と、最期の一声を残して乱闘の中から消え失せた。あとは蘭丸に、弥三郎に与五郎だけ・・・・
そう思った一瞬に、信長の突立つきざはしぎわへ屈摺 (クツズリ) を鳴らして走り寄った敵の武者が二人ある。
「右大将の御首 (ミシルシ) ちょうだいに参上!明智勢にその人ありと知られたる三宅孫十郎」
「同じく安田作兵衛!」
三宅の方へは声と同時に誰かがいきなり組みついた・・・・と、わかるだけで御前は信長に声をかける暇もなかった。
考えて躍り出したのではない。それこそ本能的に、影の本体をかばっていく蝮婦道のあらわれだった。
気がついた時には、御前は黒革の具足に白糸でおどした肩草摺の逞しい武士の前に大薙刀を構えて立っていた。
「どけ!」
と、相手は吠えた。
「安田作兵衛がめざすのは右大将信長公じゃ、邪魔するなッ」
御前はフフッと嘲笑った。安田作兵衛の武名はよく知っている。恐らく相手も白日の下であったら、信長と自分の間をさえぎる人影が濃御前であることに気づいたに違いない。
しかし、御前は答えもせず名乗りもしなかった。
「おや? うぬは女子だな」
槍をつけた作兵衛はびっくりしたようにもう一度吠えた。
「女子供の手に合う作兵衛ではない。無用な腕立てはやめにせえ」
と、その時また敵の一人が作兵衛のそばに走り寄って来た。小桜おどしの具足とわかった瞬間に、その相手は右脇から無言で御前に突きかかった。作兵衛を早く信長にかからせる気の助勢であろう。
「やっ!」 と御前の口から裂帛 (レッパク) の気合が洩れ、無双に構えた薙刀が下から上へ輪を描いてはね上げられた。
「あっ・・・・」
相手は手にした槍ごと顎から兜を斬り上げられて、ザザッとあたりへ血の雨を降らせてのぞけった。
そして次の瞬間にはもうまた御前は水のような表情で、作兵衛の前へ立ちふさがっていた。
「うーむ。女子ながら見事な腕・・・・したが、女子供の相手はならぬ。退けッ」
御前は、この間に信長が素早く寝所へ引きあげてくれるようにと心で祈った。祈った刹那、ほのぼのとした愛情が全身を走ってすぎた。
(良人のために死ぬ・・・・)
そのやさしさが自分にもあったのだ・・・・
「退かぬとあらば是非もない、来いッ」
作兵衛はいら立ち、肩草摺を大きくはねて槍をしごいた。御前が退かぬと知って、その眼はギラギラと殺意をたたえて光って来た。
「たッ!」
作兵衛が槍をくり出すのと、御前の薙刀がうなりを生じて円を描くのとが一緒であった。カチッと薙刀の刃尖が草摺の黒革を二、三寸割いたとき、御前の体はヨロヨロと前へタタラを踏んだ。
下腹部から脾腹 (ヒバラ) へかけて、ジーンと焼けただれた熱鉄をあてられたような衝撃を覚え、もう一歩踏み込もうとした膝頭が、ガクンと折れて前へのめった。
それでもまだ立とうとした。薙刀を振ろうとした。しかし、かすかに動いた刃尖のあたりに人影はなく、地面に擦りつけられた左」頬の下には、露か血かにべっとりと濡れた芝草の、ほのかな匂いがあるだけだった・・・・。

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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