〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/10 (金) 蝮 婦 道 (一)  

「もはやどんな奇蹟が起ころうと、信長の生命を救い得る状態にはなかった。文字どおり十重 (トエ) 二十重 (ハタエ) に本能寺を取り囲んだ明智勢は、しだいにその数を増やして来ている。
所司代館を占領し終わった本隊から、本能寺の濠へ水をひいた三条堀川ぞいに、ひたひたと軍兵の移動がはじまっている。
その意味では、相手が光秀では、手落ちはあるまいと宰相の云った信長の言葉は、そのままぴったりと的中していた。
(あと、それだけの生命であろうか・・・・・)
濃御前は、キッと薙刀を構えたまま、これも信長のうしろから蔀を出て、きびしい姿で最後に備えている。
どうやら侍女だけは無事に落ちたらしいが、次に見届けたいのは信長の最期であった。
信長がさっき吐き捨てるように洩らした、
「──よくも生涯、小癪ないさかいを仕掛け続けて来たものよ・・・・」
そう云った言葉が沁み入るように残っている。
考えて見れば、まことに不思議な夫婦であった。良人の寝首を掻く気で嫁いで、いつかその良人により添う影になりきってしまっていた。
田楽狭間のおりの濃姫・・・・・
コ姫を徳川家へ嫁がすおりの濃姫・・・・
はじめて信長の上洛を見送る頃の濃姫・・・・
それらの姿が今ではいじらしい他人の姿のように客観できる。
争っては和し、睦んではあらがいながら、いつか信長の半身になりきって、得意も失意も、痛みも喜びも共に感ずる濃御前になって来てしまっていた・・・・
その濃御前が、これも良人の片腕になる人物と、血縁をたよりに紹介 (ヒキアワ) せた光秀が、やがて良人の信長も、そして、その影の自分もこの世から消してゆく存在であろうとは、何という凄まじくもあやしい現世の宿縁であろうか・・・・?
「上様、お早く奥へ!」
耳のすぐそばで、また、ほとばしるような蘭丸の声を聞き、御前はハッと我に返って薙刀をとり直した。
「さわぐな蘭丸、生死は一如ぞ」
「しかし、もはや本堂からも庭先からもおびただしい人数が迫ってござちまする。この場はわれらが・・・」
「フン、眼にもの見せてやるのはこれからじゃ。手傷に負くるな阿蘭!」
蘭丸は答える代わりに追いすがって来た五、六人の人影の中へ阿修羅のように突き入った。
一人ではない。蘭丸のあとから、これも縁を踏み鳴らして逆襲していったのは全身に返り血を浴びた虎松のようだった。
落合小八郎の影はない。
濃御前はもう動かなかった。
(良人の倒れるときは、影もそのまま消えるとき・・・・)
心にそう決しながら、でき得れば、影の方から先に消えて、良人に自決の時を献じたかった。
それにしてもなんという執拗な良人の抗戦であろうか。
一度相手を追い返していった高橋虎丸が、また斬り立てられて戻って来た。と、庭先へもバラバラと十幾つかの人影が撒かれたように殖ええてゆく。
その中に山田弥太郎、薄田与五郎、大塚弥三郎の三人が深傷 (フカデ) を負った乱髪姿で混じっている。さすがの若獅子たちも精も根も尽き果てた様子であった。
一つの影が庭から奥殿の階段へ走って来た。パッと信長はそれを突き落として、そのまままたぴたりとその場を動かない。

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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