〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/10 (金) 阿 修 羅 の 計 算 (二)  

「濃はただの女子ではござりませぬ、蝮の子にござりまする。それより、殿こそ、もうご寝所へ退いて、静にお腹をお召しなされませ」
「たわけめ! 相変わらず小癪な指図をしくさる女だ。この信長を、たかがハゲの謀叛くらいで、戦の駆引きを忘れ、去就を誤まる腰抜けと見ていたのか」
「と、云うて、御みずからの戦は、もうおやめなされませ。万一敵に首級を渡すような事があっては、ご生涯にキズがつきまする」
「たわごとはもうよい!落ちよ」
「いやでござりまする」
「頑固な女だ!あとに女子の屍体があっては信長が・・・・」
云いきらないうちにもう一度はげしく御前は首を振った。
「いやでござりまする!」
信長の眼ははげしく燃えて、それから微かな笑いになった。
「よくも生涯、小癪な喧嘩 (イサカイ) を仕掛け続けて来たものよ。勝手にしろッ」
「勝手にさせていただきまする」
思えばこれが、この夫婦の、この世で最後に交わした挨拶だった。
と、いうのは、二人のこの会話のうちに、強弓のあしらいが無いと知って、数個の人影が先を争って奥殿のひさしの下へ忍び寄って来たからだった。
そしてその一人が、小腰をかがめて蔀のそばへうかがい寄って来た時、信長は、
「推参!」
短く叫んでパッと外へ躍り出た。出ると同時に 「ギャッ」 と鋭い悲鳴があがり、信長の槍に串刺しされた相手の姿は音を立てて床ににのめった。
「おお、右大将じゃ、右大将はこれにおわしたぞ。右大将は・・・・」
信長はその第二の影に無言でまた躍りかかった。
「う・・・・う・・・・右大将は、これに・・・・」
虚空をつかんでのぞける影から、こんどはザザッと板戸に血がほとばしった。
信長の声を聞いて、糸を引くように引き返してきた蘭丸が、倒れる陰に無言で一太刀浴びせたからだ。
「上様!」
と、蘭丸は、悲痛な声で片膝ついた。
「御みずからの働きは恐れ多し、いざ、ご寝所へお引き取りを」
「わかっておる」
しかし信長は、第三の影に向かって、じりじりと槍をつけていて退こうとしない。
また以前の全身闘志の殺戮を享楽してやまぬ巨獣の姿に還っている・・・・・
それを見ると蘭丸は、自分もすぐさま太刀を槍に変えて、近づく者に突きかかるよりほかになかった。

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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