〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/09 (木) 阿 修 羅 の 計 算 (一)  

信長は鬼神そのままの形相で矢を射かけながら大声で叫び立てた。
「長谷川宗仁はおらぬか。宗仁よ」
「ははッ」
と、うしろで返事があった。
「宗仁か。そちは武人ではない。今だ! 女どもを引連れて裏門から落ちよ。急げ宗仁!」
「は・・・・・しかし、このように囲まれましては」
「たわけめ、早く寺内から落ちよと申すのだ。ハゲめは女子供は斬らぬ奴だ。急げ!」
聞いていて濃御前はハッとなった。
血に狂った一匹の野獣、内大臣でもなければ右大将でもなく、ただ殺戮に酔い痴れたあばれ者の吉法師・・・・・そう思っていた良人が、あのように戦いながら、女子供は斬らぬという光秀の性癖までを計算して、侍女たちの生命を助ける機会を狙ってあったとは。
「あ、弓づるが切れた!」
ピーンと強く切れた弓弦に胸を打たれて、信長はまた叫んだ。
「宗仁、急げ。誰ぞある槍を持てッ」
宗仁は濃御前の前に両手を支えて、
「では御台所さま、ご一緒に御供を」
しかし濃御前ははげしく首を振ってみせるだけで、返事をしてやる暇もなかった。良人が中門からの侵入を押さえているうちに、女たちを落さなんだら、それこそ永遠に脱出の機会を失ってしまうであろう。
濃御前はすばやくたって良人の手に、鎌十字の槍を手渡すと、自分も半ば空になった箙を捨てて、大薙刀を取り上げた。
本堂からの回廊では、まだ追いつ追われつの死闘が蘭丸たちによってくり返されているらしく、信長のそばにはすでに一人の小姓の姿もない。
「では、ごめんくださりませ」
宗仁も濃御前は落ちる様子がないと見てとって、一団になった侍女たちの先頭に立って中庭を左へ走った。
「阿濃!」
りゅうりゅうと鎌十字の槍にしごきをくてながら、
「うぬも落ちよ。もううぬも、充分信長の役に立ったぞ。落ちよ」
「いやでござりまする」
「なに、では、この信長を辱しめようとか、信長は、最期のおりに女子の手は借りぬぞ」

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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