〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/09 (木) 鬼 の 奥 殿  

信長はそれからもう濃御前に落ちよとは云わなかった。落ちよと云ってみたところで素直に立ち去る女ではない。
まして謀反人の光秀は彼女の従兄、心の中ではここで一緒の死ぬのを、ささやかな詫びのしるしとしているのかも知れない。
信長はまた奥庭へ闖入しようとする者を、無二無三に射続けた。濃御前の云うとおり、そうしている間だけ、信長は全く以前の吉法師であり無我であった。
死の恐怖もなければ、向後の不安も、追懐もなかった。ただ眼の前の敵を倒す事だけに集中して、中門の内側の芝生の上に点々と殖えてゆく射斃された獲物の数に、いよいよ闘士をかき立てゆく猛獣であった。
敵は信長の猛射を浴びて、再び中門からの侵入をあきらめた。
と──
すぐ蔀の先の堂縁で、
「推参!」 ときり裂くような少年の声がした。
本堂よりの回廊からしのび込んで来た敵の姿に、高橋虎松と森力丸、小川愛平の三少年が、床を蹴って斬りかかっていったのだ。
ドドドンと正門のあたりで筒音がとどろき、魂消 (タマギ) る声がそれに続いた。
(とうとう奥殿へ侵入された・・・・)
濃御前は次々に信長に矢を渡してやりながら、心のどこかでかえってホッとしている自分を感じた。
もはや三百あまりの寺内の兵は、大半切伏せられたに違いない。そう云えば、闇になれたゆえばかりでなく、奥庭の芝生の中央が水底のような明るさをおびだしている。
夏の夜は明けやすい。間もなく、あたりは明るくなり、御前の屍体もその一角に冷たく横たわっていくことになろう。
(それなのに、わらわはかえってホッとしている・・・・・)
なにゆえであろうか?
そう思った時に、再び身近で少年の悲鳴があった。この悲鳴は 「無念!」 と鋭く尾を引いて、すぐさまそれに別の声が追いすがった。
「待てッ、弟力丸の仇!」
「そう云うお身は?」
「森坊丸!」
「小癪な、山本八右衛門、見参」
太刀打ちの音にからむ投げあう言葉で、濃御前は十二歳の森力丸が、しでに落命したことを知った。
いや、力丸だけではあるまい。坊丸も、そしてその兄の蘭丸も、愛平も、虎松も、小八郎も与五郎も、夜が開け放たれるまでには、みんないじらしい顔を並べて討死しているに違いない。
(これがわらわの見て来た、非情な乱世の姿であった・・・・)
「───みなも許してたもれ」
心の中で合掌して、しかもなおさほどの胸の痛みを感じないのは何故であろうか?
生きている限りつきまとう死への恐怖・・・・その恐怖から解脱できるものは死そのものだという乱世の知恵が、いつか御前の血肉になってしまっているらしい。
そう云えば、御前の一族で、そのまま寿命を完 (マット) うした者が一人でもあったろうか?
父斎藤道三はむろんのこと、母の明智御前も、大勢の兄達も、弟たちも・・・・みな血肉 (ケツニク) 相喰 (アイハ) む非業のうちに命を落としている。
(──あるいはわらわ一人、畳の上で往生できるのでは・・・・・?)
時々それを考えて、びっくりしたようにあたりを見廻すことがあったが、現実はやはりそれほど甘くはなかった。
(わらわもやはり、斬られて死ぬる・・・・・)
その悲運が、かえって彼女をホッとさせているようだった。
「うぬッ。これを喰らえ!」
はッとして、また矢をささげると、信長は、奥殿の階段わきで、一人の武者の胸板を射ぬいたところであった。
「あ──」 と御前は身震いした。
山本八右衛門と名乗った侵入者に違いない。虚空をつかんで倒れてゆく足元に、もう小川愛平と森坊丸が、朱にそまって無心に草をつかんでいる。
おそらく信長は二人の討たれるのを見て、その場を去らせず射止めたのであろう。改めて見上げる信長の形相は、すでに人間のそれではなくて、血に狂った一匹の巨獣であった。
(戦うことだけしか知らぬ鬼!)
そして、その鬼たちが生きてある限り、この世は殺し殺されて果てしないものでは・・・・一瞬だったが、御前は全身の血の凍てつくような憎しみを良人に覚えた。
と、その時だった。三度たび中門に殺到した敵の人数がワーッと大きく喚声をあげて信長の標的になったのは・・・・

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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