〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/09 (木) 青 葉 の 闇 (二) 

ワーッと門の近くで喚声があがった。と、同時に誰かが門の扉を外からカケ矢で打ち破った。その瞬間に、はじめて信長の弓弦 (ユヅル) ははげしく高鳴った。
一の矢、二の矢、三の矢、四の矢!
うしろに控えた濃御前の渡す矢は、そのまま唸りを生じて乱入して来る敵勢の胸板を射抜いていく。
「手強いぞ。退れッ」
闖入者にはどこに弓勢 (ユンゼイ) が伏せてあるのかわからず、一人の射出す矢に、四人まで射倒されて、第一隊の侵入は思いとどまるよりほかになかった。
「さすがは上様! しかしやがて引き返してまいりましょうほどに、いざ、この場はわれらにお任せあって・・・・」
また蘭丸が急き込んで云いかけた時、信長ははじめて例の割れるような声出で下知していった。
「惟任光秀謀叛と覚えたり!かくなるうえはぜひもなし、眼にもの見せて腹切ろうぞ」
「ははッ」
とみんなは平伏したが、信長はその時にはもうみんなの前にはいなかった。蘭丸の言葉どおり堂縁から蔀のうちへ引きあげて、白綸子 (シロリンズ) の寝巻きの上にきりりと単衣 (ヒトエ) 帯をしめ直し、また尻を上げて弓弦を調べている。
腹切ろうぞ、と云いながら、勝敗の計算だけで死ねる信長ではなかった。信長はおそらく最後の一瞬まで戦い尽くして、自決する気なのに違いない。
濃御前も、その間に、汗止めの鉢金 (ハチガネ) で黒髪をうしろへなびかせ、水いろのしごきを取って凛々しく襷を掛けていった。
信長が蔀 (シトミ) のうちから近づく敵を射る気と見てとって、万一の用意に薙刀を引き寄せると、そのまままたきびそく箙 (エビラ) を捧げてゆく。
蘭丸は、信長が堂縁を去ると同時に、小姓たちを引きつれて、本堂よりの回廊へ走ってゆく。
「おや、阿濃ではないか」
信長がそう云ったのは、ふり返ってここで第一の矢を受け取った時であった。
「こなたは、何という気負いようじゃ、よい年をして・・・・去れッ。女どもを引きつれて、今のうちに早く落ちよ」
しかし、濃御前は答えなかった。聞こえぬもののように、落着き払って微笑さえたたえているようだった。
「阿濃!」
「はい」
「聞こえぬのか。早くみなを連れて落ちよと申すのが、わからぬかッ」
「お言葉ながら、わらわは、吉法師の妻にござりまする」
「なに、吉法師だと!?」
「はい、もう殿は内府でも右大臣でもござりませぬ。尾張一のあばれ者、無法者の吉法師に還元なされました」
「それがどうしたと申すのじゃ。吉法師にしろ信長にしろ、女子どもを道連れにしては顔が立つまい。早く去れッ」
「いやでござりまする。そのお役目ならばほかの者にお申しつkrを・・・・」
そう云ってから濃御前は、急いで次の矢をささげた。
「それ、また中門から一人、功にはやった黒い影が・・・・・」

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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