〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/09 (木) 青 葉 の 闇 (一) 

今度はハッキリと寺内に乱入して来た軍勢の動きが感じとれた。
光秀の動員し得る人数はおよそ一万一千余り・・・・さすれば、その三分の一の四千はこの本能寺へ向かっているに違いない。すでに本堂から庫裡のあたりは上を下への戦場に代わっている。ここを攻めるほどなのだから、当然、それと同時に別働隊は二条城の信忠と、所司代に襲いかかっているであろう。
「たわけたことよ」
もう一度信長は口に出してつぶやいた。
このような叛乱の計画を知らずにいた自分よりも、惟任 (コレトウ) 日向守として、充分に西国探題の地位にのぼり、家門の反映を計れる地位にあった光秀の、この無計算な暴挙がしだいにおかしくなってきたのだ・・・
光秀は、信長一人を倒せば天下が自分のものになるという錯覚を起こしている。人間のもろもろの野心の上に、大きな動かすことの出来ない歴史の流れのあることを忘れ去っている。
「たわけめ。天下はうぬらにコソコソと盗めるようなものではないわ」
大きな時流と、それを踏まえて立つ捨身の見識と力とがひとつになってこそ、歴史は、はじけてその人の為に英雄の扉を開いて通すのだ・・・・
光秀は信長を殺すことによって再び手のつけられぬ乱世へ時代を逆転させるであろう。しかも、その乱世に逆行させてしまった世界では、彼は、せいぜい故実に明るく神経質な一人の謀将に過ぎないのだ。それなればこそ、五十を過ぎた今日まで、彼は信長の腰巾着でしかあり得なかったのではないか・・・・
じっと、この奥殿に近づく軍平の足音に耳を澄ましながら、もし信長の遺志を継いで天下に号令できる者があるとすれば、それはいったい誰であろうか・・・・?と、ふと思った。
(猿か?それとも家康か・・・・?)
いずれにしろ、光秀などではどう収拾しようとあせってみても治めきれる時世ではない。
「上様、これにあってはお危うござりまする。ここは我等が固めますれば、上様には、まず蔀 (シトミ) のうちへ」
蘭丸が小姓たちを連れて来て早口に告げていったが、信長は答えようとはしなかった。
もう起き出す者はみな起き出している。
蘭丸、坊丸、力丸 三兄弟のほかに、飯川宮松、小川愛平、薄田 (ススキダ) 与五郎、落合小八郎、高橋虎松、山田弥太郎、大塚弥三郎 等々の子飼の荒小姓たちが爛々と眼を光らして駆けつけていたし、寝所の両側に仮泊していた二十人近い侍女たちは、うしろの蔀のうちで、ひとかたまりになって息をこらしている気配であった。
信長の睨んでいる中門の外では、警護の三百人はむろんのこと、役僧たちから門番、火の番の類までが、夜襲の渦に巻き込まれ、中門から奥殿への闖入をおさえているのに違いない。

『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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