〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/08 (水) 最 後 の 自 嘲 (二) 

片手に三人張り十三束の弓を突き、片足を高殿の欄干にかけて、じっと外の様子をうかがう信長からはもう酔いに乱れた匂いは消え失せ、これもまた一族の生命を賭けて乱世に立ち向かう、逞しい牡獅子の姿に変っていた。
濃御前は、急いで矢屏風の矢束を解き、箙をささげて信長のうしろに控えた。
信長が射ようとすれば、いつでも矢の渡せる寸分の隙もない濃御前の動作であった。
「何ごとでござりまする」
「眠りこけていてごめんなさりませ」
あとで起き出した蘭丸の弟、十四歳の坊丸と十二歳の力丸とが、あわてて縁へやって来たが、それにも信長は、
「シーッ」 と発言を封じていった。
正面階段から中門ぎわへ走って行った飯川宮松の報告を待っていたのだ。
宮松は芝生を敏捷に走ってゆくと、中門ぎわの庭木の末に小猿のような身軽さで登っていった。
闖入者があったにせよ、まだこの近くまでは侵入して来ていないらしい。
しばらく松の上で小手をかざして四方を見ていた宮松は、再び芝生を糸ひくように戻って来て、蘭丸の控えている縁の向こうでぴたりと坐った。
「旗が見えました。軍兵の闖入にござりまする」
「なに?! 旗が見えたと!? してその旗の紋どころはわからなんだか」
蘭丸の声は、改めて復命する必要のないほどハッキリと信長の耳にも届く声であった。
「はい、旗印は、たしかに桔梗の紋どころ、間違いござりませぬ」
「桔梗の紋と申せば、明智どのではないか」
そう云うのと蘭丸が走って来て、
「上様、光秀謀叛にござりまする」
叫ぶように信長に復命するのとがほとんど一緒であった。
「桔梗の旗か・・・・」
信長は低く呻いた。呻くと一緒に、
「矢!」
と、うしろへ手を出して、それをささげる者が何者かも見定めずに強弓へ矢をつがえた。
キリキッと引きしぼって狙った先は中門の扉であった。
誰も人影は無いのに、何を射ようとしているのか・・・・?
そう思っていると、その矢をふたたび弓づるからはずしていって、
「フフン」 と信長は低く笑った。
「ハゲか、 ハゲではどうにもならぬわ」
「どうにもならぬと仰せられるは・・・・?」
蘭丸が訊きかえすと、もう一度信長はフフンと奇妙な笑いを笑った。
「ハゲの謀叛では考え落ちはあるまいということじゃ。おかしなことよ。たわけめが・・・・」
最後のたわけめと云った一語は光秀を嘲笑うようでもあり、信長自身を笑っているようでもあった。
再び信長はじっと全身を耳にしてその後の物音を待つ顔になった。
『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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