〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/08 (水) 最 後 の 自 嘲 (一) 

久しぶりの親子揃うた酒宴の楽しさに、信長は思わず酒を過ごしてしまった。
蘭丸にかつがれ、濃御前につきそわれて寝所へ運び込まれたのまでは覚えていたが、それからあとは前後不覚・・・・・
夢さえ見たような見なかったような気持ちで、ふっと目を覚ました。
喉がカラカラに乾いている。
次の間に休んでいる小姓たちを起こすのも気の毒だったので、枕辺まで這い出して水指を取った。
(そうだ、中将や源三郎を帰したあとで、また、蘭丸や阿濃を相手にのんでいたのだ・・・・)
酔後の水は腸にしみとおるほどうまかった。
汲ませた清水が、これほど冷たく感じられるのは、まだ酔い臥してから、そう長く時間の経っていない証拠であろう・・・・そう思ったときに、ヒヤリと何か神経に鋭い空気の動きがさわった。
信長はハッとして夜具の上へ片膝立った。
どこかで確かに人の動きが感じられる。広い寺内の奥出んだったので、まだはっきりとそれが何であるかわからなかったが、トトト・・・・と、かすかに地ひびきも聞こえて来る。
(ははあ、警護の者どもが、酒のあとでいささかいを始めた・・・・)
信長はそう思った。
かって田楽狭間で信長に奇襲された時の義元も、始めはそれを酔い痴れた味方の喧嘩と思い誤まったのだが、信長も皮肉な事に同じであった。
それほど謀叛などと云うことは、今の信長にとって予期し得ない不測の出来事だったのだ。
「うーむ。これは大勢じゃ。これ、誰かある。目ざめておる者があったら見てまいれ。下郎どもがいさかいをしているいようじゃ」
信長に手をたたかれ、次の間に寝ていた蘭丸と愛平と宮松の三人が答えた。
「はッ」
「待てッ」
と、信長はまた叫んだ。
「いさかいでは無いようじゃ。馬蹄の音が混じっているぞ」
云うのとはね起きるのとが一緒であった。
信長は、いきなり几帳から飛び出すと、その場にあった大薙刀を取り上げて、全身の神経を耳にこらした。
「阿蘭、もの見せよ。誰ぞ寺内に闖入したぞ」
「はッ」
蘭丸は片手に太刀、片手に手燭をとって縁側へ走り出た。
彼の耳に伝わるひびきもただならぬ人馬のざわめき・・・・だが、あたりは暗くて何ものも見とおせない。
蘭丸は、目を馴らすために、フッと手燭を吹き消して、自分の後ろに続いて来ている二人の小姓に声を投げた。
「愛平、宮松、庭へ出て見てまいれ」
「かしこまりました」
「待てッ。宮松一人まいれ。愛平は太刀を取れ。万一のことがあってはならぬ。上様お側に控えておれ」
その時にはもう濃御前も起き出して、
「何ごとでござりまする」
「シーッ」
信長はそれをさえぎってから、急いで薙刀を弓に代え、つかつかと立ってこれも縁へ出て行った。
『織田信長 (五)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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