海も船も、お嫌いではないのに、今日に限って、みかどは、磯へ降り立たれると、にわかに、おからだを振って
「船へ乗るのはいや」 といって、おききにならない。 どう、あやしても、おすかししても、お座船の見える渡りの方へ、足をお進めにならないのだった。 「ご無理はない、人のよく言う、虫の知らせというものであろうぞよ」 おん母の女院は、みかどが、海を前に、お顔を振って動かないお姿を見ただけで、自分もそこへ、泣き伏してしまいたかった。 けれど、帥
ノ局つぼね の眼を見ると、彼女は、心を励まされた。一縷いちる
の望みを、局の眼から、読み取るのだった。 局の良人おっと
、平大納言時忠は、どこにも見えないが、しかし、この危局を見つつ、どこかで、何かを考えていてくれるに違いない。── それは帥ノ局にも、はっきり分かってはいないが、
「かならずや、わが良人つま が、みかどを、お見殺しにはいたしませぬ。ひそと、時をうかがっているのでしょう」
と、いう程度までは、察しられたし、幾度となく、二人だけの間で、ささやかれたことでもあった。 はかない恃たの
みではあったが、女院はそれ一つを光としていた。だから、気が萎な
え入ると、帥ノ局を見た。局の眼はそのたびごとに 「── 御辛抱が大事です、おんみずから、お心をくじいてはいけません、どんな嵐の夜にも、どこかに、星はあるのです。ただ、あらしの下では、この眼に星が見えないだけのこと。このあらしに耐え抜かないでは」
と、口にこそ出さないが、絶えずその眼は女院を励ましている。 今も、女院は、はっと気をとり直したふうだった。そして、皆とともに、みかどのお心が船へ向くようにおすすめしていると、例のみかどのお気に入りの伊賀平内左衛門が呼ばれて来て、 「陛下。・・・・さ、さ。お好きなてんぐるまをいたしましょうず。家長の肩にお乗り給われ。そして、あの蝸牛ででむし
の鄙歌ひなうた をみなへ聞かせてお上げ遊ばしませ」 と、その大きな背を、みかどへ向けて、かがみ込んだ。 みかどは、それへも、横を向かれた。そして、ふいに、 「あ、蟹かに
が」 と、走り出されて、 「蟹、蟹」 と、砂上の早い影を、追って行かれた。 蟹は波の中へ、すんあり泳ぎこんでしまった。波の影と蟹の影とが、絽刺ろざし
模様みたいに透いて見えた。あのたくさんな脚やらハサミが水中で器用な動作を見せたのが、みかどには驚異であったに違いない。うしろを振り向いて、 「おん母、おん母」 と、手を振って招かれた。 しかし、そのまに、蟹は見えなくなった。平内左衛門がお側へ駈け寄り
「蟹ならば、お座船に、いくらもおります。種々さまざま
な蟹を捕って、耳盥みみだらい
に飼い、おもしろい遊びをいたしましょう。いざいざ、日の暮れぬまに」 と、みかどをお抱きして、漸々ようよう
、お座船の内へ渡御とぎょ し奉った。 |