〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/05/04 (日) み か ど と かに (二)

海も船も、お嫌いではないのに、今日に限って、みかどは、磯へ降り立たれると、にわかに、おからだを振って 「船へ乗るのはいや」 といって、おききにならない。
どう、あやしても、おすかししても、お座船の見える渡りの方へ、足をお進めにならないのだった。
「ご無理はない、人のよく言う、虫の知らせというものであろうぞよ」
おん母の女院は、みかどが、海を前に、お顔を振って動かないお姿を見ただけで、自分もそこへ、泣き伏してしまいたかった。
けれど、そつつぼね の眼を見ると、彼女は、心を励まされた。一縷いちる の望みを、局の眼から、読み取るのだった。
局の良人おっと 、平大納言時忠は、どこにも見えないが、しかし、この危局を見つつ、どこかで、何かを考えていてくれるに違いない。── それは帥ノ局にも、はっきり分かってはいないが、 「かならずや、わが良人つま が、みかどを、お見殺しにはいたしませぬ。ひそと、時をうかがっているのでしょう」 と、いう程度までは、察しられたし、幾度となく、二人だけの間で、ささやかれたことでもあった。
はかないたの みではあったが、女院はそれ一つを光としていた。だから、気が え入ると、帥ノ局を見た。局の眼はそのたびごとに 「── 御辛抱が大事です、おんみずから、お心をくじいてはいけません、どんな嵐の夜にも、どこかに、星はあるのです。ただ、あらしの下では、この眼に星が見えないだけのこと。このあらしに耐え抜かないでは」 と、口にこそ出さないが、絶えずその眼は女院を励ましている。
今も、女院は、はっと気をとり直したふうだった。そして、皆とともに、みかどのお心が船へ向くようにおすすめしていると、例のみかどのお気に入りの伊賀平内左衛門が呼ばれて来て、
「陛下。・・・・さ、さ。お好きなてんぐるまをいたしましょうず。家長の肩にお乗り給われ。そして、あの蝸牛ででむし鄙歌ひなうた をみなへ聞かせてお上げ遊ばしませ」
と、その大きな背を、みかどへ向けて、かがみ込んだ。
みかどは、それへも、横を向かれた。そして、ふいに、
「あ、かに が」
と、走り出されて、
「蟹、蟹」
と、砂上の早い影を、追って行かれた。
蟹は波の中へ、すんあり泳ぎこんでしまった。波の影と蟹の影とが、絽刺ろざし 模様みたいに透いて見えた。あのたくさんな脚やらハサミが水中で器用な動作を見せたのが、みかどには驚異であったに違いない。うしろを振り向いて、
「おん母、おん母」
と、手を振って招かれた。
しかし、そのまに、蟹は見えなくなった。平内左衛門がお側へ駈け寄り 「蟹ならば、お座船に、いくらもおります。種々さまざま な蟹を捕って、耳盥みみだらい に飼い、おもしろい遊びをいたしましょう。いざいざ、日の暮れぬまに」 と、みかどをお抱きして、漸々ようよう 、お座船の内へ渡御とぎょ し奉った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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