それだけでも、容易な苦労ではなかった。二位ノ局以下、お側近くの女房たちが、すべて乗り終わるまでには、いつか陽も没し、海は蒼
い宵やみになっていた。 唐櫃からびつ
は、船上の賢所に安置され、それに隣して、お座所構えの設しつら
えがある。これは、かつて宋との交易に用いられた大宰府船であり、軍中でも、一番巨おお
きな唐船であった。 屋形は中央と船尾の二箇所にわかれ、間に、舫門ほうもん
と呼ぶ門まで見える。帆檣ほばしら
にそって鉦鼓しょうこ を鳴らす楼台があり、また、将座の望楼があった。 望楼の下が、宗盛の入る屋形だった。一門の主なる人びとは、そこでしばらく、軍議していた。 といっても、細項は、今さら協議の必要もあるまい。おそらくは、いつなんどき眼の前に現れるかもしれない敵の水軍に対し、陣取りや戦法などの大綱たいこう
の打ち合わせでもあったろうか。 ともあれ、それは、わずかなうちに終わり、諸将は各自の船へ乗り別れた。その夜も、潮は暗かった。船陣の組まれる間に、波騒なみさい
の中に、ひとしきり武者輩ばら
のわめきが高く、海の面も は、漆うるし
の光に似たひらめきを持った。 やがてのこと。 ここ福良ふくら
から、三百余艘の影が、東方へ動き出していた、またたちまち、田ノ首でも数十艘加わるのが見え、ほかの浦々からも島を離れて合流する船影が、百七、八十艘をくだらなかった。 それ以前に、沖の遠くには、筑紫党つくしとう
の船群、伊予、阿波の船勢ふなぜい
も、早くから水上の陣についていたのである。あわせて、五百数十隻、およそこれは平家の全水軍といえるものだった。 |