〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/05/03 (土) み か ど と かに (一)

主上は、桔梗色ききょういろ のお袴に、薄色の練絹ねりぎぬ小袖こそで を召され、下に濃い山吹やまぶき の色をかさ ねておいでになった。
きっと、尼か女院が、おぐし を洗ってさしあげたに違いない。ひと際、つややかに、うない髪の切りそろえたのが、房々ふさふさ と、お耳のあたりを包んでいた。
「おん母 ──」
みかどは、武者たちの きよせる御輿おこし を見ると、女院の袖へかたくすがって 「どこへ行くのか?」 と、幼心おさなごころ にも、何か、お疑いを抱かれたようであった。
もしここで、いつものだだをおこね遊ばすようなことになってはと、女院も尼も、そして典侍たちまでが、さまざま、おもしろそうに、ご機嫌を取った。で、つつがなく、おん輿は、供奉ぐぶ の公卿、僧侶、大勢の女房たちに付き添われて、低い岡一つを越え、海辺の方へ流れて行った。
すぐ、賢所かしこどころ遷座せんざ もつづいた。
行宮あんぐう の内でも、それにはべつな一殿いちでんいつら え、昼夜の警固が付いていた。神鏡かみかがみ 、宝剣、神璽しんじ の三種の神器が秘封してある唐櫃からびつ であり、それの行く所、 る所を ── 賢所かしこどころ 、または内侍所ないしどころ とよぶのである。
その賢所の守護陣には、その任務だけで一軍隊を成しており、修理大夫経盛をかしらに、資盛の弟、少将小松有盛、丹後侍従忠房、内蔵頭くらのかみ 信基のぶもと などが、武者大勢とともに唐櫃を守って行った。
夕せまる浜辺は、物のあいろも定かでないほど、女人の姿も甲冑かっちゅう の影も、黒々と、混雑していた。真っ赤な夕陽ゆうひ の波映が、ぎらぎら眼を射るせいであろう。そして、幾艘かの唐船造からふねづく りの楼船、幾十艘の兵船、無数の小早舟こばや や小型の舟も、海面を埋めていた。
「やあ、まだ泣き足らず、ここへ来てまで、なんの泣き惑いぞ。女房船はあれよ。早う乗れ、女房どもは」
能登守教経の声である。
彼は、船ぞろいして、今日半日、待ちしびれていたところだ。
海戦ならば、やわか源氏に負けるべき、という自信にその顔は燃えている。
わずかな源氏の騎馬隊のため、赤間ヶ関の木戸も駆け散らされたと耳にして、 「ふがいない見方のやつばら」 と、さっきから歯がみをしつつ 「── 見よ、義経、やがて、 れの海原うなばら にて、教経が手練にかけて、眼にもの見せてくれるぞよ」 と、腹に言っていた時でもあった。
自然、気が げ立ち、眼底まなぞこ には、悲痛な闘志のいなずまが光っていた。── 憐れと見れば、見も出来ないほどな女房の群れが、今、どっと柵から浜へ流れ出て来て、うろたえ、悲しみおうている姿へも、彼は、羅刹らせつ のごとく、
「しゃつ、何をめそめそ。さまで波間が恐ろしくば後に残れ、しいて船に乗れとはいわぬぞ。ただ、お座船や味方とともに、離れじものと、後生ごしょう までを願う者のみ乗ればよい。その女房船は、あれに見ゆる十艘ほどの船ぞ。涙ながら懸板かけいたわたつと うて、懸板から海へ落つるな」
と、荒々ろ、どなっていた。
教経とて、涙はあろう。その涙がまた、反対の表情や声になって、むち の叫びになるのだった。
そこへ、
「おん輿こし が渉られます」
と、先触れがあった。
伊賀平内いがのへいない 左衛門家長さえもんいえながの率いる近衛兵がすぐ見えた。 内大臣おおい殿との は、ゆさゆさと、歩いて来る。門脇かどわき 中納言教盛が、すぐ後ろだった。
輿は三つ。
一つは、みかどと女院が、同座しておられ、ほか二つは、二位ノ尼ときた政所まんどころ が乗っていた。
治部卿じぶきょうつぼね も、大納言佐だいなごんのすけつぼね も、按察あぜちつぼね も、ろう御方おんかた も、そつつぼね も、ほか多くの女性もすべて歩いた。これが清涼殿せいりょうでん御庭みにわ仁和寺にんなじ の花の山ならどんなにか綺羅美きらび やかであろうが、天地は春とはいえ、暗澹あんたん な戦雲に汚れてい、玄海げんかい の海風は痛い潮気しおけ をふくんで、この人たちの白い皮膚や黒髪を吹きみだした。
とはいえ、おん輿を取り囲んで、風の中に、その人びとが立ち惑うと、磯の香も覚えぬほど、伽羅きゃら白檀びゃくだん の匂いが、甲冑かっちゅう の影のあいだを吹き漂った。そればかりか、明日にも亡骸なきがら になって、どこへ流れ着いても、人目にわら われないようにと、死後の姿を心している人びとでもあるので、風にひるがえる袖の裏や や黒髪の黒さまで、いずれも、眼がさめるほど、清げであった。こんな場合には不似合いなほど、そのきれいさは、なるでけん を競う百花に似ていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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