知盛の言葉は、ふだんの調子とどこも違わなかった。先ごろ、原田種直の放遂に怒ったさいは、多少、激色も見せたが、その後の彼は、ある達観をもったもののように、宗盛へも教経へも、内輪の違和を避け、努めて穏やかに接していた。 だから今暁来、宗盛の指揮へも、幾たびか、非は非として諌言
したが、決して、宗盛を怒らすようには言わなかった。宗盛も、そこは分かって、 「いかのも、いかにも」 とばかり、よいことには、遅疑なく同意して来た。 ──
で、今の忠言に対しても。 「いわるる通り、醜みにく
い戦はしとうない。あのざまを見よと、世の笑い草になっては、故こ
入道にゅうどう どのは申すに及ばず、平家の名に相すまぬ。・・・・このうえは其許そこもと
の指揮にまかせよう。長門の地の利、水師の駆け引き、用兵のさしず、なべて宗盛よりは其許の方が詳しくもあり馴れておらるる。総領役として、大将軍の将座にあれど、合戦に臨んでの下知げち
は其許より降くだ した方が手っ取り早い。──
黄門どの、其許なれば、このの防ぎは、どうするぞ」 「べつに、名策もございませぬが、はや、時機は来たれりと思われまする。早々、玉座を波間へ遷うつ
し奉り、どこまでも、おん供申し上げたい輩やから
は、残らず供奉ぐぶ の船上へ移り、われらも、船陣ふなじん
を組んで、ここを出陣すべきが順序かと思われまする」 「おう、それなら、今朝からもう万端の用意は成っていることだ。すぐ渡御とぎょ
を仰ごう。黄門どの、奏上を仰がれい」 「心得ました」 知盛は、階きざはし
の下へ行って、端然とひざまずき、やや改まった言葉で、内へ告げた。 「御簾のあたりに、お人あらば、内へお聞こえ上げ候え。・・・・いま、酉とり
ノ下刻げこく (午後七時)
と覚え候うが、戌いぬ ノ刻
こく (午後八時)
までに、相違なく、主上女院以下、おそろいあって、福良ふくら
の海際まで、渡御あらせられろと ── 。また賢所かしきどころ
もお座船へ捧持ほうじ し参らせ、浦々の諸船もろぶね
すべて、この彦島を一陣となって立ち出で候うべし。・・・・疾と
う疾と う、ほかの方々も、立ち出でられよ」 |