〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/05/01 (木)  ふうしょう (二)

こうして、二十三日の午前ひるまえ はまだ、からくも平穏だった。わずかな眠りや何かの心支度なども許されていた。── けれどひる すこし過ぎからやや風立って来、白い波騒なみさい をおおって、どこからともなくはい降りて来る黒煙くろけむり が海面いっぱいに見え出したころ、様相はまるで一変して来た。
つい今し方まで、味方の堅い守備の中にあるものとのみ思われていた赤間ヶ関の二、三箇所から火の手が揚がっていたのである。わけて火ノ山方面はただ事とも思われない。そこから吹き降ろされる黒煙は真下の壇ノ浦や早鞆はやとも瀬戸せと の内一面にまではいひろがって来たのであった。
彦島の地上も、黄昏たそがれ れのようにかげ った。騒然と、人馬の影が右往左往し、しきりに、
「敵は近い。はや、眼に見える近くまで」
と、急を告げあい、
くが の源氏が、火ノ山へ攻め懸ったぞ。源氏の謀者しのび が、関の町中へまぎ れ入り、ここかしこ、火を放った」
と、兵の中でわめ きぬく顔も見える。
宗盛、知盛らのいる御所の中軍の柵へは、当然、小瀬戸ノ口から、くし の歯を引くような早馬だった。また、赤間ヶ関の岸からも小早舟こばや の帆が斜めに風をはら んで、田ノ首や勅旨待てしまち の岸へ向かって来る。その舟から駆け上がって、柵へまろび込んで行く影は、すべて、おなじような急を告げる兵たちだった。
「火ノ山の陣場は、敵の放火に見舞われ、無念ながら、お味方は西北の低地へ、退いておりまする」
「景弘どの父子の手勢も、源氏の騎馬勢に駆け散らされ、さんざんな御苦戦のてい とか」
「いやすでに、お討死の聞こえもあります。一刻もはやく、御加勢なくば、つぎつぎに、木戸を打ち破られ、町の要所は、すべて敵の に落ちましょうず」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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