〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/05/01 (木)  ふうしょう (一)

知盛の制止は、たれの耳へも、以外に聞こえた。
中でも、反撥を見せたのは、直々じきじき渡御とぎょ儀仗ぎじょう を支度して来た宗盛であったのはいうまでもない。
彼のその顔が、知盛の方をじろと見た。と思うと、ずかずか歩み寄って来て、
「黄門どのか、なぜ、渡御をお止めなさるのだ。なんのお心にて」
いつもの鈍重にも似ずとげ を持った声音こわね だった。
「いや、令をおか し奉るわけではありませぬ。・・・・ただ」
よ、知盛は、兄へも、みかどの玉座へも、恭順そのままな姿をひざまずかせて。 「知盛が思うには。敵迫れりといえ、まだ戦いにはいったわけではなし、今から船上へ御遷幸ごせんこう あらせられても、女院、尼公あまぎみ のおつかれはいうもおろか、海上別れ別れと相なるため、敵に接しるまでの一糸いっし 乱れぬ陣を保って、それを待つのも、容易ではありますまい」
「しゃつ。そのようなことは、知れきっておるが、しかし、敵は今暁すでに、早鞆はやとも瀬戸せと の東へ影を見せたという。いざとなってからでは」
「いえいえ、決して、遅くはございませぬ。先鋒せんぽう には筑紫つくし の山賀、松浦などの一陣がすでに海上にあり、二陣に阿波民部、そのほか、さて次のわれら中軍の内に、御座船は位置されることですから」
「では、まだ御座船が沖へ出るには、早いといわれるのか」
「そうです。なお玉座は、ここにおかせ給い、いざ今ぞ、と見えたとき、渡御を仰ぐも、よろしいかと思われますが」
「そうか。なるほど・・・・」 宗盛はどう思ったか、案外、態度をすぐかえて 「能登どの。能登どのには、その儀、どう思うな?」 とうしろへ、たず ねた。
何かにつけて、彼の信頼は、教経に厚いらしい。教経は、答えた。
黄門こうもんきみ のお考えは至極です。それがしにも、異存はおざりませぬ」
「ならば、能登どのの手勢は磯に出て、いつでも渡御をお待ちするよう備えてpかれよ」
そこで、おん輿こし は一時、きざはし の下にすえ置かれ、教経以下の将士は、磯へ立ち去った。
このにわかな模様がえは、一時ながら、女房たちをほっとさせた。足許から鳥の立つような支度を余儀なくされたため、尼や女院も、ゆうべは一睡もしていなかったし、みかどの供御くご (食事) を始め、みな、朝餉あさげ もすましていないのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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