〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/30 (水) の ろ し (五)

「お召しでございますか」
そこの広縁の上から、二位ノ尼が、彼を呼んでいたのである。
彼女のうしろは、玉座であった。御簾みすとお して、みかどと、女院のお姿も、内に見えた。
「黄門どの」 と、尼は、もいちど、あらためて彼を見た。おそらく、一睡もしていなかったのであろう。その皮膚は、朝の艶もなかった。薄化粧はしていたが、まぶた れ、その眼のふちは、うす黒かった。
「みかどの渡御とぎょ は、いつなりと、はやお身まわりの儀も、すみました。── が、賢所かしこどころ のおうつ りには、守護陣の奉行はたれぞ。また、お座船の方も、御用意はととのうておりますか」
悉皆しっかい 、手落ちはないと存じますが」
「・・・・存じますがというて、あなたは、供奉ぐぶ しておいでにならぬつもりか」
「知盛は、先陣を承りますゆえ、合戦ともならば、ただちに、乱軍の中へ、突き進まねばなりませぬ。── やまやま、お側にあって、御守護申し上げていたいと人事ますが」
「では、御座船へは、たれが」
「申すまでもなく、 内大臣おおい殿との が」
「宗盛どのがか?」
「総大将軍、また御総領の君として、それは当然でございましょう」
「では、おん身とも、けさ、これきりで、もうお目にかかれませぬか」
「・・・・いや。・・・まだ、しばしは」
知盛は、片手を地へ落し、つい片方は、両のまぶた をおさえてしまった。
尼も、御簾の蔭の女院も、しばらく、袖に顔を埋めていたが、
「ゆうべからおん身のみは、ついに女房の柵へ別れを告げに行かれた御様子もない。・・・・典侍の一人にいうて、あなたの和子と北ノ方を、あれへお連れ申しておきましたぞよ。よそながら、一目でもお顔を見せてあげたがよい。渡御とぎょ までには、まだ間もあろうに」
と、わきの小部屋を指さした。
知盛は、はっと、眼をそこへやった。おとしい者の姿があった。妻の黒髪と七ツばかりの童女が簾の蔭に見えた。いっそ、見ずに死のうとしていた胸が、いちどに、なだれを打って、彼の鎧姿よろいすがた を、ただの父、ただの良人おっと その者とした。
けれど、そこの階を上がって行く暇もなかった。なぜなら、おりもおり、宗盛以下、大勢の侍大将が、賢所の守護陣と、みかどのおん輿こし く者たちを従えて、御庭みにわ も狭しとばかり、ここへ入って来たからである。
宗盛のさしずの下に、守護陣は 「いざ、いざ、おん輿こし へ」 と、殿上へ御催促のかたちを示した。すると、知盛が起って、彼らの粗暴を叱るように止めた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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