「お召しでございますか」 そこの広縁の上から、二位ノ尼が、彼を呼んでいたのである。 彼女のうしろは、玉座であった。御簾
を透とお して、みかどと、女院のお姿も、内に見えた。 「黄門どの」
と、尼は、もいちど、あらためて彼を見た。おそらく、一睡もしていなかったのであろう。その皮膚は、朝の艶もなかった。薄化粧はしていたが、瞼まぶた
は腫は れ、その眼のふちは、うす黒かった。 「みかどの渡御とぎょ
は、いつなりと、はやお身まわりの儀も、すみました。── が、賢所かしこどころ
のお遷うつ りには、守護陣の奉行はたれぞ。また、お座船の方も、御用意はととのうておりますか」 「悉皆しっかい
、手落ちはないと存じますが」 「・・・・存じますがというて、あなたは、供奉ぐぶ
しておいでにならぬつもりか」 「知盛は、先陣を承りますゆえ、合戦ともならば、ただちに、乱軍の中へ、突き進まねばなりませぬ。── やまやま、お側にあって、御守護申し上げていたいと人事ますが」 「では、御座船へは、たれが」 「申すまでもなく、
内大臣おおい の殿との
が」 「宗盛どのがか?」 「総大将軍、また御総領の君として、それは当然でございましょう」 「では、おん身とも、けさ、これきりで、もうお目にかかれませぬか」 「・・・・いや。・・・まだ、しばしは」 知盛は、片手を地へ落し、つい片方は、両の瞼まぶた
をおさえてしまった。 尼も、御簾の蔭の女院も、しばらく、袖に顔を埋めていたが、 「ゆうべからおん身のみは、ついに女房の柵へ別れを告げに行かれた御様子もない。・・・・典侍の一人にいうて、あなたの和子と北ノ方を、あれへお連れ申しておきましたぞよ。よそながら、一目でもお顔を見せてあげたがよい。渡御とぎょ
までには、まだ間もあろうに」 と、わきの小部屋を指さした。 知盛は、はっと、眼をそこへやった。おとしい者の姿があった。妻の黒髪と七ツばかりの童女が簾の蔭に見えた。いっそ、見ずに死のうとしていた胸が、いちどに、なだれを打って、彼の鎧姿よろいすがた
を、ただの父、ただの良人おっと
その者とした。 けれど、そこの階を上がって行く暇もなかった。なぜなら、おりもおり、宗盛以下、大勢の侍大将が、賢所の守護陣と、みかどのおん輿こし
を舁か く者たちを従えて、御庭みにわ
も狭しとばかり、ここへ入って来たからである。 宗盛のさしずの下に、守護陣は 「いざ、いざ、おん輿こし
へ」 と、殿上へ御催促のかたちを示した。すると、知盛が起って、彼らの粗暴を叱るように止めた。 |