〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/30 (水) の ろ し (四)

その文字ヶ関の沖に、一陣の船列を敷いて、早鞆はやとも瀬戸せと の口を、不断に見張っていた松浦党の一将、呼子兵部少輔よぶこのひょうぶしょうゆう 清友きよとも は、櫓立ろだ て十二ちょう小早舟こばや を飛ばして来て、
「敵、九郎義経どのの水軍、およそ六、七百隻、いよいよ見参に入りましょうず」
と、知盛の前に告げた。
「来たか」
知盛も、さすが大きな呼吸をした。
「── して、まっすぐに、この暁の満潮みちしお を見つつ、早鞆ノ瀬戸へ、向かって来るようか」
「いや、さはにわかにも進んで来る様子ではありませぬ。満珠まんじゅ干珠かんじゅ の二島と壇ノ浦の東のあたりまでを、おびただしいその船影が、遊弋ゆうよく しておりますが」
「進みもやらず、退きもせず、あの辺りの海上を?」
「あるいは、そこから、船上の武者を岸へ上げ、まずくが寄手よせて とひとつになって、火ノ山の高所を攻めつぶ さんとするものかとも思われますが」
「それもあろう」
知盛は、突っ立って、いちど、何か衝動のまま動くとしたが、また床几へ腰をもどして、
「惜しいことだ。今からの出勢では、ちと遅い」
と、つぶやいた。
そして、なお呼子よぶこ 兵部ひょうぶ へ言うには、
「今日このごろの暁は、満々としてみなぎ り見ゆる満潮だが、およそ、今より一刻いっとき (二時間) を過ぎなば、うしお は急流のごとく、東の内海うちうみ へ向かって、落潮らくちょう を現わし始める。── 敵が、その潮時しおどき もわきまえず、潮に逆ろうて来るならば、百艘千艘の陣も、手につばき して、一挙に海底へほうむ り去ることも難くはない。・・・・だが相手は、九郎判官どのよ、そこはおそらく抜かるまい。さは、うかつに、盲進してくるわけはない」
と、自問自答して、何か、べつな手段てだて を思いめぐらす容子だった。
「それよ、敵の義経どのが、今暁、影を見せたのは、あらかじめ、潮の速さや、 の時刻、渦潮うずしお の場所など、戦の前に、見ておこうの腹であろう。おそらく、今日は合戦の腹ではあるまい。まず、おこと ら筑紫勢の船をもって、備えのみを示しておけ。敵は間もなく、元の串崎へ退き下がるに相違ない」
下知を与えて、呼子兵部を沖へ返すと、知盛はすぐ床几を離れて、行宮の御廂みひさし の方へ歩いて行き、きざはし の下にひざまずいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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