夜は白みかけても、女房の柵は、まだ墨のようだった、暗い涙の海のっまだった。 ──
つかの間の別れを惜しめよ。 ── 今生の名残をかたらい合えかし。 と、許しの触れがすべての者へ出たので、やもの道を、思い思い足を早めて来る人影がひとしきり絶えなかったが、その跫音
も途絶えると、あとは、果てない哀別としじまの底に、おりおりの小さい物音や、咽むせ
び泣きが聞こえるだけであった。 およそ、 内大臣おおい
の殿との の妻子を始め、一門公達の肉親やら、侍大将らの妻女も、みなこの柵にいたが、極く身分の低い、ただの士卒の妹やら妻女なども、下級の局仕つぼねづか
えをしていたのである。当然、その者たちも、別れに来ていた。 また、北ノ方とか、側室とかいわれていないまでも、ひそかに、契ちぎ
りあってきた恋人同士は、ゆるされたこの一刻ひととき
を、命かぎり抱擁に燃やしあって、暁が迫るのも覚えぬ姿を打ち重ねていた。 が、知盛だけは、そこにいる妻子へ、顔を見せに行くひまもなかった。 ──
なかなか宗盛が戻って来ない。それにつぎつぎと、勅旨待てしまち
ノ浦うら から海上の物見が、報をもたらして来ていた。さらに、小月鮪太の訴えを聞きなどしているうち、空は明るんでいたのである。 「光李みつすえ
、光李」 「はっ」 「もう、お名残もおすみであろう。内大臣の殿に御催促申して来い。みかども、お眼ざめの気配。女院にも、はや玉座にお姿を見せておられる。──
かつは、敵の九郎義経が水軍は、ゆうべから串崎にあり、今朝の動きこそ、油断ならじと」 「心得てござりまする」 紀光李きのみつすえ
は、女房の柵へ駈けて行った。そしてわざと大声で、知盛の言葉のままを、そこから怒鳴った。 我に返って、暁を知ったのは、ひとり宗盛だけではな。局々つぼねつぼね
、軒ば軒ばに、男女の影がにわかに動いた。二度と会うことのない後朝きぬぎぬ
を惜しみ合う影ばかりだった。その袖を振り切って、たちまち、柵の内から外へ駈け去って行く武者もあったし、名も見栄もなく、なお未練を断ち得ないでいる男女もあった。どこかでは、嬰児あかご
の声がし、どこかでは、わが良人つま
よ、わが妹背いもせ よ、と呼交う悲鳴に近い声もする。──
すべてまだ暗い朝靄あさもや の中だった。陽は昇りかけながら、明け悩むかのような今朝であった。 すると。──
豊前がわの陸影の岸。 ちょうど、文字ヶ関の後ろに当る峰の一つから、まっすぐ狐色きつねいろ
の煙が立ち昇った。 「のろしだ」 と、島じゅうの眸め
が、すぐ見つけていた。 海峡の口に、何か、異変がみとめられたら、すぐ合図せよと、かねて、のろし番の哨兵しょうへい
をその峰においてあったのである。 「すわ」 と、ここの福良でも、どよめき立ち、 「敵ぞ。敵の水軍が襲よ
せて来たにちがいないぞ」 と、天?てんぴょう
のような戦気にすべてが吹かれた。 |