〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/30 (水) の ろ し (三)

夜は白みかけても、女房の柵は、まだ墨のようだった、暗い涙の海のっまだった。
── つかの間の別れを惜しめよ。
── 今生の名残をかたらい合えかし。
と、許しの触れがすべての者へ出たので、やもの道を、思い思い足を早めて来る人影がひとしきり絶えなかったが、その跫音あしおと も途絶えると、あとは、果てない哀別としじまの底に、おりおりの小さい物音や、むせ び泣きが聞こえるだけであった。
およそ、 内大臣おおい殿との の妻子を始め、一門公達の肉親やら、侍大将らの妻女も、みなこの柵にいたが、極く身分の低い、ただの士卒の妹やら妻女なども、下級の局仕つぼねづか えをしていたのである。当然、その者たちも、別れに来ていた。
また、北ノ方とか、側室とかいわれていないまでも、ひそかに、ちぎ りあってきた恋人同士は、ゆるされたこの一刻ひととき を、命かぎり抱擁に燃やしあって、暁が迫るのも覚えぬ姿を打ち重ねていた。
が、知盛だけは、そこにいる妻子へ、顔を見せに行くひまもなかった。
── なかなか宗盛が戻って来ない。それにつぎつぎと、勅旨待てしまちうら から海上の物見が、報をもたらして来ていた。さらに、小月鮪太の訴えを聞きなどしているうち、空は明るんでいたのである。
光李みつすえ 、光李」
「はっ」
「もう、お名残もおすみであろう。内大臣の殿に御催促申して来い。みかども、お眼ざめの気配。女院にも、はや玉座にお姿を見せておられる。── かつは、敵の九郎義経が水軍は、ゆうべから串崎にあり、今朝の動きこそ、油断ならじと」
「心得てござりまする」
紀光李きのみつすえ は、女房の柵へ駈けて行った。そしてわざと大声で、知盛の言葉のままを、そこから怒鳴った。
我に返って、暁を知ったのは、ひとり宗盛だけではな。局々つぼねつぼね 、軒ば軒ばに、男女の影がにわかに動いた。二度と会うことのない後朝きぬぎぬ を惜しみ合う影ばかりだった。その袖を振り切って、たちまち、柵の内から外へ駈け去って行く武者もあったし、名も見栄もなく、なお未練を断ち得ないでいる男女もあった。どこかでは、嬰児あかご の声がし、どこかでは、わが良人つま よ、わが妹背いもせ よ、と呼交う悲鳴に近い声もする。── すべてまだ暗い朝靄あさもや の中だった。陽は昇りかけながら、明け悩むかのような今朝であった。
すると。── 豊前がわの陸影の岸。
ちょうど、文字ヶ関の後ろに当る峰の一つから、まっすぐ狐色きつねいろ の煙が立ち昇った。
「のろしだ」
と、島じゅうの が、すぐ見つけていた。
海峡の口に、何か、異変がみとめられたら、すぐ合図せよと、かねて、のろし番の哨兵しょうへい をその峰においてあったのである。
「すわ」
と、ここの福良でも、どよめき立ち、
「敵ぞ。敵の水軍が せて来たにちがいないぞ」
と、天?てんぴょう のような戦気にすべてが吹かれた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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