〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/30 (水) の ろ し (一)

赤間ヶ関の辻の一箇所を固めていた美濃前司みののぜんじ 則清のりきよ の部下は、怪しげな一人の男を捕えて、則清の前へ引いて来た。
「こやつ、源氏のまわし者に相違ありませぬ。ここの市人いちびと でもなし、旅人とも見えず、うんさんな眼をして、伊崎の木戸をうかごうておりましたれば」
と、殺気立っている兵たちは、その男を、踏んだり ったり、口も開かせないのだった。
「まあ、待て。── いい分も聞いてやれ」
則清のりきよ は、部下の狼藉ろうぜき を解いて、
「どこから来た。そちは?」
と、まず訊ねた。
「串崎の者でおざる」
男は答えた。
昂然こうぜん として、また。
「串崎にほど近い小月おづき の住人、小月鮪太おづきのしびた と申す者。今でこそ、名もない磯人いそびと でおざれど、以前は、老父とともに都へ出て、久しいこと、権中納言ごんちゅうなごん どのの車宿くるまやどり に、車雑色ぞうしき として仕えていたこともありまする」
「なに知盛卿の車雑色じゃと」
「されば、六波羅、西八条を焼き払うて、御一門、都を落ち給うその日までは」
「それはうそ でないか」
「偽りならぬ証拠は、こよい命がけで、串崎の仲間を脱け、ここへ大事をお知らせに来たのをもって、お信じ給わるしかございませぬ」
「と申す、大事とは」
「敵の義経どのがひき いる水軍数百艘を、この眼で見申したゆえ、驚破すわ 、一刻も早く彦島へと存じまいて」
「えっ。源氏の水軍を、眼で見たと」
則清は、仰天した。
なおまだ、敵は陸上から来る火の手だけと考えられていたのである。
則清はすぐ、鮪太しびた を連れて、伊崎の浦から彦島へ渡った。
そこの海幅せまい渡し口が小瀬戸であった。
島と伊崎の岸との間に、数条の太綱が懸け渡してある。武者舟、馬舟、荷舟などの交通は、それを手繰りつつ絶え間もない。
小瀬戸を守る新三位中将資盛に、わけを告げて、則清は、島内へはいった。そして福良ふくら の御所に、知盛を訪うて来たのが、もう夜半も過ぎたころ。
知盛の前では、鮪太しびた の訴えも一そう詳細であった。
── つい、宵のこと、彼は語る。
鮪太は、串崎の地侍じざむらい や神主に狩り出されて、ほかの屈強な若者とともに、櫓拍子ろびょうし をそろえて、串崎の北磯へ、 いで行った。
見ると、北磯の蔭には、大小六百の船群が、いかり を下ろしてい、磯にも、たくさんな武者がながめられ、なんとも物々しい景色であった。
ここへ来るまで、鮪太は何も知らなかったが、磯へ着くと、忌宮いみのみや の神官だの主船司すせんじ 久忠ひさただ などという土地ところ の有力者が 「── ここへ ぎまわして来た串崎舟十三隻は、すなわち、源氏の大将軍へ献上する物である」 といい 「おまえたちも、磯へ上がって、判官義経どのに、お目通りを賜るのだ。そして、あすの船戦ふないくさ に、串崎男の腕を見せて、忠勤をぬきん出れば、立身出世は疑いない。出世したくば、命をなげうって、源氏の為に戦せよ」 と、いい渡された。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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