〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/29 (火)  きゃ き (四)

尼は、典侍たちを女房のさく へやって、その旨を触れさせた。覚悟は、女人もみな持っていたにせよ、いざ船戦ふないくさ のただ中へ行くのかと思うと、土との生別、人との生き別れ、仮屋の灯やふすま も、今宵限りかと、胸 かれたにちがいない。
やがて、柵の内の、あちこちのひさし に、小さい灯影が、幾十となく、揺れていた。
雨夜のような濃い闇は、春の夜に見られがちな海気を含んでいるのであろう、灯の一つ一つがかさ をもって、ぼっと滲みあっている。気配はあわただしげだったが、あくまで密かな物音が、仮屋仮屋のひさし から、外へ漏れて来るのである。
おそらく、二百人近いここの女性にょしょう たちが、にわかな身支度を戸ごとの奥でし始めているのであろう。かそけき騒音のうち に、低い私語ささめごと やらなんともいえない歔欷きょき の声も流れた。女人特有なあの人のはらわた をかきむしらずにおかないような忍び泣きが一人や二人ならずどこかでするのであった。── が、またどこともなく、湯けむりの影がはい、ほのかな脂粉しふん の香もただよった。暗いそよ風は、伽羅きゃら の匂いをもち、髪の薫りをも伝えていた。思うに、そんな悲しみとあわただしさの中でも、彼女たはすぐ 「── 死出の身浄みぎよ めを」 と、にわかに髪を くやら肌にこう を忍ばせたりしているのではあるまいか。船上へ移っては、化粧などのままにならないことはいうまでもないし 「・・・・これ最期さいご ぞ」 と思えば、ありあう衣裳も惜しみなく身にまとい、肌着の下まで、死後の人目を考えて、人にわら われまいとつとめたことはいうまでもあるまい。
── そうした気配は、柵一重の御所のみ庭からも、手に取るように分かった。たれか断腸だんちょう の思いを抱かずにいられよう。宗盛も知盛も、またそこにいた武者ばら の人影すべて、愁然しゅうぜん と、声もなくみな、うな垂れていた。
そのうちに、
「や、内大臣おおい殿との は」
と、知盛は、ふと気づいて、かたわらの紀光李きのみつすえ の顔へたずねた。
「── 内大臣の殿には、にわかに床几を起って、どこへ何しに、走り行かれたのか?」
光李は、黙って、女房の柵の方へ歩いて行き、柵の境から、伸び上がっていた。ややしばらくして戻って来、知盛の耳もとへ、そっと答えた。
「── 最前から御床几にあって、御落涙のていに見えましたが、つい耐え難くおなりになったのでしょう。女房の柵の内におわす北ノ方のお住居へ、駈け入るごとく、姿をお消しになりました」
「おう、では名残を惜しみにまいられたのだな」
「そこには、まだおいとけない乙子おとご の君もおいでですから」
「・・・・御無理はない。・・・・したが、今生の名残を惜しみたい者は、内大臣の殿だけではないはず。かかるうえは、女房の柵の内に、妻子をおいてある者は、みな、つかの なりと、最後の顔を見せに、参るがよいぞ。── 光李、諸陣の将士へ、そう触れをまわしてやれ、母ある者、妻ある者、子ある者は、夜明けまでのつかの のうち、女房の柵へ来て、それぞれ、別れを告げるがよいぞと」
「あっ、ありがとう存じまする」
光李は、自分のことのように、うれしげであった。すぐ四、五の郎党と手分けして、島じゅうの柵へ、知盛の令を伝えた。また船上の人びとへは、小早舟こばや がせて、暗い波間から、告げてまわった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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