〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/29 (火)  きゃ き (三)

── と、二人のそばへ、宗盛がずかずかと歩み寄って来た。かなたの床几で、さっきから、尼と知盛の話しを横耳にしていた総領の宗盛だった。
「おはなしの途中なれど」
と、宗盛は、尼と知盛とを、当分に見て、
「おたずねの儀は、一に合戦の成り行き次第と申すほかない。陸地くがじ へ御動座あれば、安泰には似たれど、敵は海戦に出る前に、陸兵を せ、途々あの通り、兵火をほしいままに攻め下って参りまする。・・・・さすれば、赤間ヶ関も安泰ならず、彦島とて、小瀬戸の守り一つ。しょせん、主上を始め奉り、以下女房方まで船上におわすのが、もっとも、よろしいかと考えられる。のう、これは先夜も、黄門どのへ、計ったことだが、其許そこもと の御所存は、いかがあるかの」
彼としても、すでに腹には決めているものを、わざと意見をただす風だった。
当初、玉座の場所については、さまざま議せられたものだった。
しかし、豊後ぶんご には、源氏の三河守範頼がい、長門ながと も義経の麾下きか が先駆して来る今となっては、この彦島のほか、みかどの御座ぎょざ の地は、どこにもない。が、宗盛としては、ここさえ、不安らしいのである。
万一、自身が海上に出て戦う日、あとの彦島で、みかどの御身をめぐ って、どんな善意であろうと、自分の意志にそむ く ── たとえば帝の御身隠しといったような策が ── 味方内で企まれないとも限らぬ、よいう危惧きぐ があるのだ。
彼のそうした猜疑さいぎ は、櫛田の神主の密書と、原田種直の帰国に絡んで、一そう強くなっていた。
「玉座のさだめは、大事中の大事、そこは総帥そうすい たる兄君のお胸において、われらへ、おさしず賜わりませ。── こうせいと仰せあらば、知盛に、なに異存がございましょうや」
知盛は、そう答えた。
原田の帰国にも、知盛は沈黙を守って見ていた。もう兄とは争うまいと決めていたのだ。兄の猜疑する点もよく分かっている。まず兄の疑いに触れぬことが、全軍一致の前提と彼はしていた。
「そうか、そういわれると総領の任は重いの」
宗盛は、果たして、幾分か、眼をやわらげた。そして尼の方へ、
「あるいは、お気に染まぬやも知れませぬが、玉座を陣頭に仰いで戦うのと、後ろに残して、後ろ髪を引かれつつ戦うのとでは、士気の強弱に雲泥うんでい の差がありまする。他ならぬこの度の決戦、ぜひぜひお座船は一門の船列そ並んで海上へ進み出られ、すべての者と、興亡をともに遊ばすの御心を示し給わんことを、宗盛よりも、お願い申し奉る。── いやこれは、宗盛一存の望みなどではありませぬ。それがそく 、戦に勝つの軍略でもございますれば」
と、かさねて言った。
「わかりました」
尼は、しずかに。
「では主上はお座船に。・・・・そして、ほかの、またな女房たちも」
「たれかれをとわず、みな女房船へ移させ、お座船の供奉ぐぶ 申しあぐるがよいと思う」
のみ子をもつ女性にょしょう もあるが」
「それはそれの、心まかせといたしましょう、要は、合戦の日、玉座は中軍におく奉るということです。そのお心ぐみにて、はや何かの御用意を」
総帥そうすい の言は、すなわち、軍命といってよい。尼はもう何も言わなかった。 って、ほの暗い の奥にその姿を隠した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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