彼は、戦局迫るや、勅旨待
の自陣を引き払って、御所の守りにすぐついた。そこで夜を明かそうの腹らしい。 彼のみでなく、彼より先に、総大将宗盛も近くの舘たち
を出て、その将座を御所の御庭に移していた。しかし、女院も二位ノ尼も、知盛が来るまでは、姿も見せずにいたのである。 知盛の顔を見て、尼は、安心したらしく、 「いざとなれば、あなた方はみな、敵の矢前に立って、働かねばなりますまい。もう、わらわたち足手まといの者に、後ろ髪を引かれてくださるな」 と、かえって、知盛らを励まし、そして、 「ただ、みかど以下は、ここを動かず、御座ござ
あらせ給うのか、矢風を避けて、よそへ御動座を仰ぐのか、合戦に臨む前に、そこを明らかに、お指揮しておいて給た
も。そのことさえ一定いちじょう
ならば、尼みずから女房たちを指図して、一切の始末、いちいhし、諸卿のお心はわずらわせぬ」 と、気丈に言った。 尼には、もうはっきりと、ある心の姿が出来ている。子の知盛にひびかないわけはない。 「・・・・はい」 ふと彼は、鎧よろい
の身も、副将の任も忘れて、ただ一個の、人の子の涙に、揺すぶられそうになった。 なぜここで、母を母と呼べないのであろう。もうじき死ぬ運命にあることを、知り合っていながら、どうして、相抱いてはいけないのか。この世における短いが濃い強い血縁えにし
の名残を悲しんではならないのか。 心のなかで、彼自身立ち惑っていた。答えは得られなかった。後ろには、郎党たちがひざまづいている。御垣みかき
の外には、軍兵どもの影が厚かった。みな血縁を世に持たぬ者はない。泣きたいのは自分だけではないのだった。知盛は自分の中に、すざまじい鬼霊が生きているのを感じた。冷たい鬼の血になり切っている五体を鎧の下に覚えた。尼の姿も、おなじであった。甘えて子が近づけるような、あのあたたかな母のひざを持つ姿ではなかったのである。 |