〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/29 (火)  きゃ き (一)

「やあ、どこか遠くの兵火らしいぞ、あの黒けむりは?」
「さては、源氏の陸兵だろう。火ノ山の東あたりか」
「いやいや、火ノ山よりは、ずんとはるかな方に見られる、だが、敵のかか りはいよいよ眼に見えて来たのだ。抜かるな、人びと」
これと同様な声は、彦島じゅうの諸所のさく に、同時にわき揚がっていたのである。二十二日、ひつじこく (午後二時) を少し過ぎた陽脚びあし の空だった。
前夜、原田種直が、帰国したので、それの動揺が、ほかの筑紫つくし の諸党にまで及んではと、首脳部の間には、今暁来、べつな警戒心が味方にそそがれていたのである。
ところが、案外、なんのことなく憂いは去った。赤間ヶ関のかなたに揚がった煙が、ここ六千余人の眸を、
「すわ、源氏の襲来?」
と、一方へ引き寄せてしまったためでもあろうか。
源氏が近づく。駸々しんしん と陸からも迫って来る。という飛牒ひちょう はもう毎日聞こえていたのだが、現実の兵火を眼に見た刹那せつな からの緊迫はまた、べつだった。どの顔つきも先刻までの顔ではない。
浦々の船隠しにいた兵船は、紅旗をひるがえして、広い水面へ、その船列をゆるぎ出している。
諸所のさく には、 が聞こえ、陣鉦じんがね が鳴り響いた。小瀬戸を渡って、赤間ヶ関の方へ、一陣二陣と、後詰うしろまき のため、上陸して行く軍勢も見える。
「敵は、豊浦とよら 、府中を駈け崩し、社寺や民家まで、焼きたてて来るというぞ」
「踏みとどまったお味方のせい と、秋根の山野で、血みどろな合戦中とか」
「もし、そこの防ぎがつい えたら、火ノ山もまた、危うかろうに」
「火ノ山には、安芸守景弘どのも加勢に向かっておる。やわか、そこまでは」
いつか、夕陽ゆうひ が落ちてゆく。宵深まるままに、遠くの煙は、ひどく赤く、近々と見えた。そして、無月むげつ の海峡は、いやがうえにも、暗黒のわだつみのかお を濃くしていた。
が、彦島からながめると、赤間ヶ関方面には、いつにない軍勢のかがり火や松明たいまつ がちりばめられ、以前の繁昌の灯が、忽然こつぜん と、山添いの町々や埠頭ふとう を飾っているのではないかと、ふと疑われるほどだった。
それを指しながら、権中納言知盛は、
「お心づよく思し召せ、陸手くがて には、景弘の加勢のほか、今また、美濃前司みののぜんじ 則清のりきよ の三百騎を せ向かわせました。海には山賀党、松浦党、伊予の仁井党、阿波の阿波民部が船手など、いついかなる変にも処して戦う備えを欠いてはおりません。・・・・かつまた、ここを守護し奉る船陣数百艘とともに、 内大臣おおい殿との もおられ、かくいう知盛もおりますからには」
と、御所の坪に床几しょうぎ を置き、内なる女院やあまきみ を力づけた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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