太宰少弐
原田種直の仮屋は、島の南端、田ノ首の浦にある。 筑紫つくし
ノ組くみ と呼ばれていた。 山賀党、松浦党などの筑紫組の多くは、船上にあったが、原田党だけは田ノ首に営をおいて、本軍と海上との連絡や補給の継ぎ目になっていたのである。 夜明け方であった。 そこの営所へ一隊の将士がどやどやと混みいって来て、
「少弐どのは、まだ寝所か。寝屋ねや
はどこか」 と、たずねまわり 「原田どの、出い
でられよ、 内大臣おおい の殿との
の召さるるぞ」 と、大声で呼ばわったりした。 その様子が、いかにも無礼であり荒々しい。種直の家臣らは、不審に思って、 「お迎えなれば、異議ののう罷まか
るものを、何ゆえのお騒ぎ立てぞ」 と、問いただすと、一人の将は、 「御諚ごじょう
なれば、御諚のままに振る舞うのみ。委細は、福良ふくら
の御所へまかれば知れよう。疾と
う疾と う、われらとともに参られい」 と、一そう威猛高である。 はしなくも、味方喧嘩げんか
となりかけた。双方とも気は立っている。あわや血も辞さないものが見えた。 騒ぎを知って、種直もここへ姿を見せ、部下をなだめるのに骨を折った。柵の附近から浦へかけて、廃船の残骸ざんがい
やら食糧の俵や苞つと やら、軍需の物が、山をなして散らかっていた。その中での出来事である。ひとたび、同士打ちでも始めたら、収拾はつかない。 「おそらく、何かのお間違いであろうよ。お目にかかれば分かること。構えて、雑言をつつしみ、種直が帰るを待て」 言い残して、彼は、迎えの将士に囲まれて行った。周囲三里の島だが、田ノ首から福良へは、北の小高い岡を越えて行き、道もさして遠くはない。 福良の陣館じんやかた
の柵を入ると、種直の身辺には、一そう武者たちの警戒的な眼がつきまとった。しかも、通された所は、幕とばり
の床几ではなく、ふだん武者だまりとなっている大床おおゆか
であった。 正面には、宗盛が着座してい、めずらしく修理どの (経盛) や門脇かどわき
どの (教盛) まで居ながれている。── また横の列座には、侍大将たちの首座に、能登守教経が、きびしい気色を眉に沈めて、すわっていた。 「・・・・?」 これはなんたる景色か。 |