ところで、その晩は、三月二十日の宵ごろであったが、さくらノ局は、 「
内大臣 の 殿との
のお召しです、ちょっと、そこまでお歩ひろ
いください」 という迎えをうけて、女房の柵から連れ出されていた。 彼女は、迎えの者を見たせつな、さっと顔色を失った。 内大臣おおい
の 殿との と聞いたからである。 わななきながら、彼女は
「・・・・こんな夜陰に」 と、渋って見せ 「尼あま
ノ公きみ に、お伺い申さいでは?」
と、いい逃げようとしたが、使いに来た飛騨ひだの
四郎兵衛しろうびょうえ は、 「それには及びませぬ。急いでとの、おいいつけじゃ。お短気なあの殿のこと。おん身化粧などはそのままでよろしい。被衣かずき
でも召されて、すぐおいであれ」 と、待ったなしの催促だった。 ぜひなく、被衣をかずいて、彼女は、四郎兵衛景経とその郎党たちについて行った。生きたそらもない影であった。 かつて、紀州にいたころは、湛増法印たんぞうほういん
の寵愛ちょうあい と、周囲の力をかさにきて、その才気と勝気を誇っていた彼女も、今は窈窕ようちょう
の美も意気も、みじめなまでに、やつれていた。 ── 古い諺ことわざ
にある “女賢サカ シウシテ牛売リ損フ”
というあの言葉通りな彼女であった。 余りに、自分の美貌びぼう
と才に恃たの むところの多かった彼女だけに、見事、湛増から逆な打っちゃりをくっていたと分かったときに気崩れは、はたの見る眼も気の毒なほどだった。一夜に色気も褪あ
せ、女らしさの地肌もそれからは荒すさ
びていた。 ── 無理はない。平家へ味方しようと彼女へ堅く誓った湛増は、その田辺水軍をあげて、源氏方の一翼として屋島沖へあらわれた。しかも、その屋島では、一門大勢の中で、彼女は、さんざん内大臣おおい
の 殿との からののしり辱はずかし
められた。── もしあのおり、二位ノ尼が、見るに見かねて、庇かば
ってくれなかったら、宗盛のため、成敗されたか、海中へ突き落とされて、今日の命は、とうになかったかもわからない。 で、それからというもの、彼女は、宗盛のあの顔が、瞼まぶた
について離れなかった。御総領とか、内大臣の殿とか、ひとの口端くちは
に聞くだけでも、膚はだ に恐怖がはった
── まして今宵はその人の乳人子めのとご
たる四郎兵衛が、直々じきじき
迎に来たのである。陣館じんやかた
までの暗い小道を行く被衣が、人知れずわなないたのも、無理はなかった。 |