尼御所の建物に隣して、かなり広い地域にわたる女房の柵
とよばれる一劃いっかく もあった。 みかどと女院の側近くに仕える典侍から雑仕女ぞうしめ
までの、女人ばかりが一かたまりにおかれていた。また一門の幼い姫君やら上臈じょうろう
や各大将の北ノ方なども、漁夫の家にもひとしい板小屋ながらおのおの棟むね
をべつに住んでおり、それぞれ局つぼね
長屋や女童めのわらべ をかかえている・──
いわば敵に一矢を射る戦力すらない者ばかりがいる待避の柵といってよい。 夜々の暗い潮鳴りは、ここの柵をも仮借かしゃく
なく吹きめぐった。そして 「── 戦近し」 と潮うしお
は告げ、 「恐こわ らしい坂東男ばんどうおとこ
の水軍が、はや周防灘まで来ているぞ」 と、気が気でないものの如く、女房小屋の廂ひさし
を打って教えているようであった。 けれど、ここの一劃いっかく
だけは、浦々の武者が揺れ騒ぐ夜も、しいんとしていた。── おりに、乳ち
のみ児の泣き声がどこかでするほか、灯影のもつれもつつしんで、ひっそりしたままだった。おそらく、ここが悲鳴と狂乱に落ちる日は、彦島最後のときであろう。それほど、彼女たちは、眼の前の運命に無力であった。霹靂へきれき
の下にただうつ伏しているときの観念にも似て、何もかもただ天命視していた。 八歳のみかど、二十九でしかないお若い国母も、ここにおいでなのだ。彼女らはそう思ってじっと生命いのち
の怯おび えに耐えあっている。けれど夜更けて泣く嬰児あかご
の声を聞くとたまらなくなって、どこの灯影も人影もすすり泣いた。そして、 「なんと罪深いことであろう。いっそ産まぬものならば・・・・」 と、みな思った。 こういうことになり果てようとはたれも考えていなかったので、都落ちのおり、平家の大将たちは、あらかた妻子を連れ出したし、二位ノ尼にしても、姪めい
やら孫姫などの、可愛い者たちほど、もれなく連れていたのである。自然、以後三年間には、一門の妻室に嬰児あかご
も産まれ、もうはって立つ年ごろの子もいたし、まだ乳を離れぬ生後わずかな子もいたのだった。 国母建礼門院と、二位ノ尼はべつにして、いったい、平家の女房群とは、どういう人びとであったろうか。──
一ノ谷の合戦直後、良人おっと
の通盛みちもり の戦死を追って、妊婦みおも
でもあったのに、船から入水して果てた小宰相ノ局などは、そのことで、語り草に残っているが、多くはほとんど知れていない。 今、ここの女房の柵にある人びとでも、ほぼ分かっているのは、 |