その宵、尼御所をそっと訪うていたのは、権中納言知盛と、尼の孫資盛
(故・重盛の次男) とであり、ほかにもう一人、白髯
の老将を伴って来たのである。 老将は、筑紫つくし
岩戸の豪族ごうぞく 、原田小卿はらだのしょうきょう種直だった。 種直は、九州平氏の重鎮であった。 小卿とは、太宰少弐だざいのしょうに
の別名である。故清盛が、博多はかた
ノ津つ を中心に、宋船そうせん
との交易をさかんにしていた当所から、種直は、六波羅の代務をそこで執と
っていた。 だから彼と平家との間は、一朝一夕のものではない。 かつて、清盛が病んだ時、はるばる博多ノ津から、宋医そうい
を連れて、都へ見舞いに上がったのも、彼であった。 また、寿永二年の秋ごろ。 流亡の平家が、みかどを奉じて、筑紫つくし
筑紫つくし のみちのくを転々としたときも、一時、種直の岩戸ノ舘たち
を、安徳帝の行宮あんぐう としていたことがある。 ──
それもつかのま、緒方党そのほかの九州源氏の来襲で、平家はふたたび、海上へ漂い出い
で、豊前からやがて屋島へ、のがれたのだった。 「・・・・思えば」 と、種直は、尼の姿を見ると、すぐ、瞼まぶた
に老涙をもって、 「故入道殿にも、さだめし、頼みがいなき原田かなと、地下でお腹立ちでございましょう。緒方、戸次べつき
、菊池など、筑紫の諸党の多くが、源氏へ傾いたのも、みなこの種直の力不足がいたすところ」 と、九州の現状の非を、自分の責めかのように詫わ
びた。 「なんの、お許もと
の落度ではない。お許の変わらぬお心は、人も知ること。亡な
きわが良人つま とて、なんぼう、うれしゅう思し召しておられるかしれませぬ」 尼は、なぐさめ顔に言う。 とはいえ、その九州一円も、ほとんど敵地と変わり、ここの寸土に、死守の一戦を賭か
けるしかないことを思うと、尼のみならず、みな冴さ
えぬ沈黙に落ちた。 「少弐どの。さっそく、其許そこもと
の御所存を、尼あま ノ公きみ
へ申し上げてみてはどうか。・・・・そのうえにて、われらの愚存も申そうほどに」 知盛に、そう促されて、 「はっ」 と、種直は、あらたまった。そして、ふところから、一書を取り出して、うやうやしく、尼の前にさしおいた。 その書状と、種直の言を綜合すると、内々、尼へそっと計りに来た問題は、次のようなことであった。
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