ここの死地から、密かに、都へ使いを落としてやるには、よほど心きいた者をして、巧みに変装させてやらねばならない。 それも、なかなかな難事である、宗盛は、乳人子
(乳兄弟) の飛騨四郎兵衛景経と相談して、弦巻つるまきの
一八という老爺ろうや を、その使いに選んだ。 一八はもともと、弓師であって、本来の武者ではない。ただ、親の代から六波羅の御用を承うけたまわ
ってきた恩顧から弓繕ゆみつころ
いの一人として陣中にいたのである。頓知とんち
に長た け、片目のの容貌ようぼう
など、至極な密使と、これを都へやることになった。 「待て待て四郎兵衛、せっかく、さほど恰好な男を見つけたなら、われ一人の文苞ふみづと
のみでなく、余人のかたみ送りをも、ともに託してやっても、労はおなじことぞ。── たとえば、女院におかれても、さだめし、さいごのお便りをしたい御方も都にはあるであろう。なにかおことづてはないか、伺うて進しん
ぜよう。── 一八の出発は、明朝まで、まず待たせておけ」 宗盛は、景経にいいおいて、その夜、ほど遠くない行宮あんぐう
まで、歩いて行った。 途々みちみち
、彼は幾つもの、兵の野営や仮屋を見かけた。 各所の兵たちはかがりの下や小さい焚火たきび
をかこんで、ある群は兵糧ひょうろう
をとり、ある群は、針など持って、袴や肌着のほころびを縫い、またある者は、たどたどしい手つきで、文などを書いていた。 「まことに、兵の屯たむろ
も、これまでのようではないのう。なんと、睦むつ
まじげな・・・・」 かねて、陣見まわりから、聞いてもいたが、かほどまでとは、眼で見ぬうちは思えなかった。兵糧時の、あの餓鬼騒ぎも今は聞こえない。宥いたわ
りあい、慰めあって、まるで一家の団欒だんらん
を見るかのような情景もある。 思うに、彼らの端までが、 「長くもないこの世」 と、今は観念の底にいるのであるまいか。と同時に、甲乙お互いに見合う顔は、敵以外、憎悪しあう顔はもうどこにもない。みな憐あわ
れな死地の仲間だった。あと幾日でも、生きている間だけは、せめて仲よく、真情と真情とをそそぎあって生きなければ ── と努めあっている様子が、はからずも、平和な日ごろでさえもまれな仲睦なかむつ
まじい共同の暮らしを描き出していたのだった。 また、こんな態てい
も見かけた。宗盛の歩んで行く小暗い道ばたで、五、六人の雑兵が、青竹を伐き
っていた。そしてそれをまた、節短ふしみじか
に鋸のこぎり で引いているので、 「何にするのか?」 と、宗盛が、郎党に訊たず
ねさせると、彼らは、口をそろえて、 「されば、いよいよ大合戦の日も近づき申しましたゆえ、われら雑兵も、いずれは、海の藻屑もくず
か、矢さきの犠牲にえ ぞと、覚悟を申し合わせまいてござりまする、で、じつは」 と、尺ほどに引いた青竹を示しながら、なお、こう答えた。 「──
日ごろ、信心のある者は、名号みょうごう
、経文などを認したた めて、後生ごしょう
の願いとし、また、家の妻子や老いたる親どもへ、末期まつご
の便りを届けたやと、夢にまで念じるものは、夢恃ゆめだの
もよりはましならんと、おのおの、文を書いて、青竹の筒に封じ込め、それをば、海中に投じるのでございまする。── 浪よ風よ、心あらば、千に一ツでも、この青竹の筒を、都に近き磯へ漂い寄せよ
── と昨日今日、みなして、波間へ投げ入れては、祈っているのでございました」 これを聞いて、宗盛もさすが胸が痛いた
んだ。途々ひそかに総大将たる身をかえりみて、自分に恥じた。 行宮あんぐう
の柵門さくもん は暗かった。──
衛士えじ の大将伊賀平内いがのへいない
左衛門さえもん に、 「みかどは」 と、宗盛が、直々じきじき
に問うと、 「はや御寝ぎょし
かと存じ上げられます」 と、彼はいう。 「女院にも、御寝ぎょし
ノ間ま にか」 「いえ、つい今しがたまで、帥そつ
ノ局つぼね を召されて、しめやかに、何かおん物語らしゅう拝されましたが」 「ならば、訪おとの
うてくれい。宗盛が参りしと」 行宮あんぐう
の柵はもちろん、女院の舘たち
も、めったな者の立ち入りは許されない。まして夜陰、まして男性。 けれど、宗盛は、べつである。建礼門院にとっては兄君なのだ。 こいの彼の訪れも、妹へ対する兄に気持が半ばであった。やがて、局のうちでは、兄と妹とが
── いや座は、国母として、女院の方が上座で ── 静かに向かい合っていた。 |