〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/21 (月)   きょく (四)

「はて、・・・・なんたる悽気せいき ?」
佐伯景弘は、思わず耳をおお った。
彼は神職の耳を持っている。厳島での長い生涯にも、こんな凶韻きょういん を楽器から聞いたことがない。
「生々と生きの命を愉しむものが管絃だ。それが、あだかも、鬼の くような。・・・・ああ、、争われない亡兆ぼうちょう の音律よ」
座に耐えず、彼はこっそり、外へ出た。
そして、気づいたことであった。いつの間にか、島にも海づらにも、一こぼれの月光もない。真の闇ではなく、何か曖昧あいまい な薄暗さが、天地にかぶさっているのである。
「・・・・・ああ、今宵は、月蝕げっしょく
寿永四年三月十五日 ── と、彼はこよみ のうえを思い出した。
「はて、奇異な巡り合せもあるものかな。これ最後の一門集議が、月蝕の夜に当ろうとは。・・・・楽器がっき の音が、流麗りゅうれい でないのも道理よ」
ふと、彼は歩を止めた。
薄墨を いたような闇の奥に、ぼやっと、二ツ三ツの灯が見えた。中門とはいえない粗末な柵門さくもん があり、そこから先は、みかどの皇居となっていた。
灯の下に、何か、他念なくむつ み合っていらっしゃるおん母子ぼし の影が簾越すご にながめられた。ふと、お眼ざめになったのか、みかどは、おん母の肩にからんで何かはしゃいでおいでのぴょうである。── 黒い月がおめずらしくて、それを見に、負うて、坪の外へ出よと、女院にせがんでおられるのかもわからない。
「・・・・・」
景弘は、思わずポロポロと涙をこぼした。われにもあらず、ひざを折って、そこから、おん母子の白く、さやげな影を伏し拝んでいた。
── と、見つけたように、そこへ、彼の子息景信が、そばへ走って来、
「父上、こんな所においっでしたか」
と、やや息をはず ませて言った。
「景信か ──」 と、立ち上がって 「わしは、もう酒は充分。わしに心をおかず、さり気のう、そちだけは、元の座にいたがよい」
「いえ。・・・・ちと、困ったことが出来ましたので」
「何か、あったか」
「雑兵のうちに桜間ノ介どのが、彦島を抜け出し、それが、資盛どのの郎党に知れ、佐伯組さえきぐみ から、裏切り者が出た。佐伯どのは、源氏のまわし者を、彦島へ連れ込んだのではないかなどと、しきりに、いいさわ いでおりまする」
「そうか、いずれは、そんなことであろうとは察していた。おそらく、そのとおりな桜間ノ介であったかも知れぬ」
「どういたしましょう」
っておけ、放っておけ。彼も、ひとかどの男、やみやみと、平家を敵へ売る者ではない。おそらく、大理どのと、腹は一つの者であろう」
「でも、内大臣おおい殿との のお聞こえもありましょう」
「そのため、この景弘が罰せられるなら、それもまた仕方がない。── そうだ、大理どのも、仰せられた。くぁしはわしの道を歩む、其許そこもと は其許の道を歩めと、人さまざまよ。平家という大樹の花がみじんに散るのだ。いちいちこずえを去る花の行方を問うてはおられぬ」
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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