「・・・・では、どうしても」 未練とは思いながら、座の立ちぎわに景弘がついもう一度、こう念を押すと、時忠は、いかにも、彼へ対しては気の毒そうに、 「せっかくながら」 と、好意を謝し、 「よそながら、知盛卿へは、よしなに伝えておいて欲しい。・・・・彼人
の腹と、時忠が量見とは、真ま
っ向こう 、両極のごとく相違しておるやに見ゆるが、平家を思うことと、人らしき道を求めていることは、違うてはおらぬ。・・・・景弘、其許そこもと
と時忠の立場にしても、そうではないか」 と、沁々しみじみ
言った。そしてまた、 「其許は、厳島の神職、死ないでもよい身なのだ。さるを、領土も捨て、一族を連れ、この彦島へ参さん
じて、平家と運命を共にせんとする意気は、なんとも健気けなげ
よ。美しくもあり崇高すうこう
ですらあるぞ。・・・・されば、其許の決意を、時忠は引き止めはせぬ。其許は其許の思う道を行け、時忠は時忠の道を歩むばかり」 「いや、分かりまいた。お打ち明けは給わらねど、お心の底は、どうやら、ほのかに」 軒ばの夕空を見、景弘は、何か思い出したものの如く、急に辞して、船へ移り、茜あかね
の海を、むなしげに彦島へ帰って行った。 ── その景弘が去ってから、小屋の灯が、寂せき
とした夜を持ちはじめたころである。 海女あま
の芦屋が、軒先に佇み 「── 讃岐さぬき
さま、讃岐さま」 と内をのぞいていた。そして時実が出て行くと、何か小声こごえ
で言伝ことづ てを告げて、逃げるように走り帰ってしまった。 人馴れない彼女は、ここへ来ても、いつもこんな風なのである。時忠は奥で笑っていた。──
が、時実は、小首を傾かし げながら戻って来て、 「父上。あの
── 芦屋が、たそがれの浜辺で、このような物を、景弘の家来から頼まれたとか申して持ってまいりましたが、なんでございましょうか」 と、父の前へ、さい置いた。 見れば、ただの笛袋である。 「景弘の家来から?」 「はい。──
何分、芦屋の申すことなので、よく分かりませぬが、半首はつぶり
をつけた家来の一人が、きっと、届けてくれよと、芦屋へ頼んで去ったそうでございますが」 「さては、その家来とは、桜間ノ介であろう。・・・・時実、中の笛を検あらた
めてみよ」 父にいわれて、時実は、袋の緒お
を解き、小刀で笛を割ってみると、案のじょう、細く巻いた書面が笛の中に隠してあった。 まぎれなく、桜間ノ介からの連絡だった。以後の両軍の動きやら自身の消息のあとに
“── 近日、周防境すおうざかい
にて、蜜々、判官殿へ拝顔をとげ奉る所存” とあり、そして、これからの連絡は、海女あま
の小娘の手に託すか、島の北岸にある楊柳かわやなぎ
を目印めじるし とするか、どっちかの手段によりますから、おりにふれ、お意こころ
を注そそ がれるように ──
という意味も言ってあった。 「・・・・時実」 「はい」 「知っているか、今宵は月蝕だが」 「まことに、sンがっ十五日でしたな」 と、時実は、軒ごしに、空をながめて、 「まだ、月は明るうございますが」 「やがて、夜半近くともなれば、月はありながら、黒い月になろう。──
ちょうど平家の今に似ている。なんの兆しるし
か、こよい彦島では、平家最後の評議があるという」 「桜間ノ介密書にも、源氏は、大挙して、周防灘からこれへ下くだ
ってくるようですが」 「ここの浦風は、もうそくそくと、その近いことを告げている。時実、かねがね申しおいてある心構え、その日となって、惑まど
うなよ、血迷うまいぞ」 小瀬戸か大瀬戸か、まんまるな月の下に、潮鳴しおな
りが遠く聞こえる。 出船千艘、入船千艘といわれる海峡の繁昌も、戦近しとわかっているのか、町の灯もなく、通う小舟の影一つ見えない。ただ、海女あま
の芦屋の小屋から、晩の煙が、細くゆれのぼっているだけだった。 |