〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/20 (日) くろつき (四)

「・・・・では、どうしても」
未練とは思いながら、座の立ちぎわに景弘がついもう一度、こう念を押すと、時忠は、いかにも、彼へ対しては気の毒そうに、
「せっかくながら」
と、好意を謝し、
「よそながら、知盛卿へは、よしなに伝えておいて欲しい。・・・・彼人かのひと の腹と、時忠が量見とは、こう 、両極のごとく相違しておるやに見ゆるが、平家を思うことと、人らしき道を求めていることは、違うてはおらぬ。・・・・景弘、其許そこもと と時忠の立場にしても、そうではないか」
と、沁々しみじみ 言った。そしてまた、
「其許は、厳島の神職、死ないでもよい身なのだ。さるを、領土も捨て、一族を連れ、この彦島へさん じて、平家と運命を共にせんとする意気は、なんとも健気けなげ よ。美しくもあり崇高すうこう ですらあるぞ。・・・・されば、其許の決意を、時忠は引き止めはせぬ。其許は其許の思う道を行け、時忠は時忠の道を歩むばかり」
「いや、分かりまいた。お打ち明けは給わらねど、お心の底は、どうやら、ほのかに」
軒ばの夕空を見、景弘は、何か思い出したものの如く、急に辞して、船へ移り、あかね の海を、むなしげに彦島へ帰って行った。
── その景弘が去ってから、小屋の灯が、せき とした夜を持ちはじめたころである。
海女あま の芦屋が、軒先に佇み 「── 讃岐さぬき さま、讃岐さま」 と内をのぞいていた。そして時実が出て行くと、何か小声こごえ言伝ことづ てを告げて、逃げるように走り帰ってしまった。
人馴れない彼女は、ここへ来ても、いつもこんな風なのである。時忠は奥で笑っていた。── が、時実は、小首をかし げながら戻って来て、
「父上。あの ── 芦屋が、たそがれの浜辺で、このような物を、景弘の家来から頼まれたとか申して持ってまいりましたが、なんでございましょうか」
と、父の前へ、さい置いた。
見れば、ただの笛袋である。
「景弘の家来から?」
「はい。── 何分、芦屋の申すことなので、よく分かりませぬが、半首はつぶり をつけた家来の一人が、きっと、届けてくれよと、芦屋へ頼んで去ったそうでございますが」
「さては、その家来とは、桜間ノ介であろう。・・・・時実、中の笛をあらた めてみよ」
父にいわれて、時実は、袋の を解き、小刀で笛を割ってみると、案のじょう、細く巻いた書面が笛の中に隠してあった。
まぎれなく、桜間ノ介からの連絡だった。以後の両軍の動きやら自身の消息のあとに “── 近日、周防境すおうざかい にて、蜜々、判官殿へ拝顔をとげ奉る所存” とあり、そして、これからの連絡は、海女あま の小娘の手に託すか、島の北岸にある楊柳かわやなぎ目印めじるし とするか、どっちかの手段によりますから、おりにふれ、おこころそそ がれるように ── という意味も言ってあった。
「・・・・時実」
「はい」
「知っているか、今宵は月蝕だが」
「まことに、sンがっ十五日でしたな」 と、時実は、軒ごしに、空をながめて、
「まだ、月は明るうございますが」
「やがて、夜半近くともなれば、月はありながら、黒い月になろう。── ちょうど平家の今に似ている。なんのしるし か、こよい彦島では、平家最後の評議があるという」
「桜間ノ介密書にも、源氏は、大挙して、周防灘からこれへくだ ってくるようですが」
「ここの浦風は、もうそくそくと、その近いことを告げている。時実、かねがね申しおいてある心構え、その日となって、まど うなよ、血迷うまいぞ」
小瀬戸か大瀬戸か、まんまるな月の下に、潮鳴しおな りが遠く聞こえる。
出船千艘、入船千艘といわれる海峡の繁昌も、戦近しとわかっているのか、町の灯もなく、通う小舟の影一つ見えない。ただ、海女あま の芦屋の小屋から、晩の煙が、細くゆれのぼっているだけだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next