〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/20 (日) くろつき (二)

今日も老漁夫は、娘が ったあわび小鯛こだい などを竹籠たけかご に入れて、 「おなぐさみに」 と、時忠の姿が見える縁先までおそ る畏る持参した。時忠は、例の牢船ろうせん からここへ移されてからも毎日、書見ばかししていたが、徒然つれづれ のまま 「おやじ、まあ話してゆけ」 と、老漁夫を引き止めて、
「この小島には、元からの名はないのか。名がなくては、歌一つ詠むにも不便。── 名と申せばまた、そちの娘も、なんという名ぞ」
と、訊ねたりした。
芦屋あしや の里で生まれましたので、そのまま、芦屋と呼んでおりまする」
「幾つか」
「まだ根っからの子どもで。はい。年ばかりは、もう十六でござりますが」
「愉しかろうな、親娘おやこ ふたりで、かかる小島に、何苦労なく暮していたら」
時忠はふと、都にあるわが の夕花を思い出していた。親の流浪るろう よりは、残された子の、親恋しさはと、おも られていたのである。
おやじは訥々とつとつ と、言葉を続けた。問われたことには、みな答えなければ悪いように思うのか、島の名について、
「ここの小島を、土地ところ の者は、船島とやら申しまする。いやほんとは、船虫島じゃ、浮寝島ふねじま じゃと、人まちまちで、きまった名もあるわけじゃございませぬ」
と、ひとり言のように語っていた。
すると、娘の芦屋が走って来た。そして何か早口に父親へ告げ、 き立てるように父を連れて帰ってしまった。彼ら父娘おやこ が、時忠の軒へ近づくことは、前もって、禁じられていたことに違いない。
「はて?」
その時、讃岐中将時実も、外から父のいる縁先へ近づいて来て、
「父上、ただ今、西の磯へ二艘の船が着きましたが、いつもの見まわり舟とは見えませぬ。どなたか、常ならぬ人が、これへ訪うて来るようでございますが」
と、知らせた。
時忠も、ひそかな人恋しさはあるにちがいないが、
「およそ、待たるるほどな客が、ここに見えようとは思われぬ。内大臣おおい殿との か、能登どのの使いでもあろうず」
と、興もなげに、つぶやいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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