〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/19 (土) くろつき (一)

彦島のすぐ東北側の海に、もひとつ、小さい点が見える。
島ともいえない小島であった。
海面すれすれに、一座の岩礁がんしょう が見えるほか、ただ木や草ばかりが密生している浮島に似ていた。
そこの緑と白砂の朝夕は、山鳥海鳥のけじめもない海峡の鳥類どもの領有のようであった。が、人もうないわけではない。以前から一軒の小屋があり、老いたる漁夫と小娘が住んでいた。
小娘は海女あま であった。この海峡を東西へ通う舟行の旅人のなぐさめに、海底にもぐ って、旅人の言うがままに、魚や貝を採って見せ、わずかな物代ものしろ を得るのである。文字ヶ関にも、赤間ヶ関の渡口とこう にも、そうした生業なりわい の男女は多いが、こんな名もない島のかけらに住んでいるのは、かれら父娘おやこ だけだった。
だから、漁仲間の者は、変わり者のねぐらとそれを遠くからながめて 「── なにたの しみに?」 と、わら っていた。しかし、とう の父娘には、けっこう愉しい別天地であるらしく、おりおり、のどかな炊煙も見せ 「世間のやつらが何知って」 と、あべこべに、町の人間を嘲っているかのようであった。
ところへ、去年の冬からの戦争である、海峡両岸の繁昌の灯も、ばったり消え、旅人の往来は、途絶えてしまった。陸では、荷物をかつ いで、野山へ逃げたり、源平両軍が入れ代るたびに、人や物も徴発され、生きた空もない日がたびたびあるという。 「── それみたか」 と、老漁夫は、娘に言った。 「流れ矢さえ避けていれば、どんな戦になろうと、ここは安泰なものだ。世間のみじめなことを見ろ」 と。
けれど、やがて、ここも世間の外でないことが分かって来た。── ある日、彦島の田ノ首方面から、大型な兵船が ぎ寄せて来、平家の兵が上がって来た。そして、たった二、三日の間に、壁もない丸木造りだが、とにかく家らしい物を建ててしまった。 「お陣屋か?」 と父娘は眼をそばだてたが、そうでもなく、やがて二人の貴人がそこに住み始めたのを見た。 「・・・・さては、流されて来た罪人つみびと かも知れぬ」 と彼らは思った。貴人にしては侍女や家来もいず、毎日、見まわりの兵が来ては、かて やら日常の物など置いて行くといった風に見える。
貴人の呼び名は 「大理だいり どの」 。御子息は 「讃岐どの」 ということもすぐ分かった。
── 讃岐どのは、彼らの小屋を見つけてから何かと不自由な物を求めたりたず ねに来たりした。で自然、小屋の父娘とも、すぐ親しくなった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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