平家は早くから備えもしていたし、近づく最後の日にも、今は、ほぞを固めていた。 いや、平家といっては、言い過ぎになる。平家の内にも、人びとの思いには、なお、まちまちなものが潜んでいた。合言葉のように
「最後の日ぞ」 と称 え合っても、それの解釈とそれに処する考えは、一様ではないのである。 その中で、真の覚悟とは、知盛の腹に、黙って、包まれてあるものと言ってよい。 この彦島を、半歳わたって、不落の砦とりで
と築いて来た権中納言知盛も、今は、彦島を、 「ああ、この死地」 と、ながめずにはいられなかった。 先には、三河守みかわのかみ
範頼のりより の東国勢が、ここを措お
いて、北九州へ押し渡ってしまい、豊前の要所を扼やく
したまま、陣を固めて、動かない。 九州の緒方党おがたとう
、臼杵党うすきとう 、平家であった菊池党までが、今は源氏に加盟し、万が一の場合は、九州へ退いて許考えていた知盛の二段構えも、後図こうと
の恃たの みとすることは出来なくなった。 「すべては、時の運」 このあきらめは口惜しい。 知盛の本意ではなかった。 けれど、こう思うしかない事態は、屋島の陥お
ちたことにある。屋島が ── ああもろく、しかも短時日に潰つい
え去ろうとは ── 彼には予測のほかだった。 人であるからには、神算鬼謀などということは、出来るはずもない。しかし、なし得る思慮と、めぐらし得る策には、万々、欠けるところはないものとしていた知盛の自負も、屋島陥ちぬと聞こえた日は、眼の前が真っ暗になったかのような思いをさせられたものだった。 「これまでのこと」 彼の覚悟は、その日にすわっていたのである。 ──
やがて、その屋島から、厳島を経て、ぞろぞろ彦島へ落ちて来た一門同胞をここの浜に迎えても、彼は何一つ、その人びとへ、愚痴は言わなかった。 その日から、島の内の砦とりで
ノ舘たち を、みかどの行宮あんぐう
にあて、 「女院 (建礼門院) は申すまでもなけれど、二位ノ尼公きみ
も、ここでは、御所をお一つにお暮らしあるがよろしかろう」 と、すすめ 「── 知盛あるからには、戦のことなど、さらさらお忘れあって、一日の間も、お愉しみ遊ばすように」 と、心からいたわった。 赤間ヶ関の岸とは、小早舟こばや
の一漕ひとこ ぎである。毎日、近侍の者を市いち
へやって、珍しい食物、みかどのお歓びになりそうな物、何くれとなく求めさせ、 「今日はこのような物を、市いち
より購あがな わせました」 などと知盛自身、玉座へ持って出たり、また夜は夜で、わずかな陣務のひまにも、ごきげんを伺いに出、女院や老母たちとも一つに、さながら平和な日の団欒まどい
そのままを、彼も他愛なく座に交じって、愉しんでいるふうだった。 事実、彼は心ひそかに、 「── せめて幾日でも、おん母子ぼし
の睦むつ みを、この世のうちに、名残のう尽くしおかれるように」
と、何をおいても、祈っている。 |