〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/18 (金) ひこ しま と り で (二)

彦島は、引島ともいう。
権中納言知盛は、去年の十月ごろから、ここに城塞じょうさい を構えていた。
島の巡りは、参里余もある。
平軍が進駐するまでは、島には、まばらな漁夫小屋に海女あま の姿が見られるぐらいなものだった。それが数千将士にみたされ、館や柵門さくもん が出来、また、文字ヶ関や、豊前ぶぜん の岸との往来も盛んになり出して、たちまち、景観も違って来た。
島の港、福良ふくら には、巨大な船が、威風を示してい、九州の松浦党、山賀党、そのほか、ここへ糧米や兵を送って、加勢を誓う者も始終絶えない。
その陣容と、ここの士気を眼に見る者は、平家が衰運とは、どうしても、思えなかった。
わけて、知盛への、衆望も高い。
彼は、人も知るように、内大臣おおい殿との (宗盛) のすぐ下の弟である。
「兄君とは、似もし給わず」
とよく言われる。
宗盛に似ないということだけでも、非凡を意味することなのだろう。
一ノ谷で、源氏に生け捕られ、やがて京から鎌倉へ差し立てられた三位中将さんみのちゅうじょう重衡しげひら は、知盛の次の弟でる。上には似ていないが、その重衡には、どこか、面ざしなども似通うている知盛だった。
しかし、この知盛も、一ノ谷では、生田ノ森の首将として立ち、一子智章ともあきら をうしなったのみか、源氏のため、みじめな敗北を喫している。
「あの恨み、あのおりの辱、忘れはせじ、忘れてよいものか」
何かのとき、彼が、一門の人たちにもらした言葉である。
知盛は、口少なく、至って、寡黙かもく なたちだった。
それだけに、彼の一語は、人びとの耳に、妙に消えないものになった。おそらく、一門中の真の主戦的人物は、この知盛であったかも知れない。── おなじ決意でも、宗盛の覚悟とも違うし、教経のような、荒公達の血気とも違っている。
あくまで、黙々と、挽回ばんかい の誓いを、骨髄こつずい に持っている沈剛ちんごう な大将という風がある。
で、去年の冬、彼が屋島から転戦して来てからというもの、周防、長門、豊前、豊後ぶんご 地方は、ほとんど平家になびき、この地方に羽翼をのばしていた三河守範頼の東国軍も、その足場を失ったばかりか、兵の食いつなぎにさえ窮してしまったほどだった。
いったい、どういういくさ 振りを、知盛はしたのか。
当時、長門へ下っていた土肥実平から、義経のもとへ、飛脚で知らせた一文がある。
それによると。

── 元暦元年 (寿永三年) の冬、すでに知盛卿、文字ヶ関に攻め入られ、安芸、周防以下、みな平氏に従ふ。
兵船はつねに百余隻を以って組み、毎度、時ならず襲来、船中には、大楯おほだて を植ゑならべ、武者その身をあらはさず、陸地に近づいては、狭間はざま をひらい、一せいに馬腹を射、また、歩兵のやから 、にはかに船より岸へかけ上って、さんざんに働き、突として海上へ去る。
かくて、度々の合戦に、官兵 (源氏) つねに敗れをは んぬ。その上にも、知盛卿、彦島に堅固の城を構へらる。参河どの (範頼) の、ぜひなく、豊後の地へ渡られ、しばし、てい を御覧ぜらるるやの由にて候ふ
と、見える。
知盛が、いかにここを死所と思いさだめているか。そして、その下の水夫かこ 歩兵までが、東軍勢も刃が立たないほど、いかによく戦っているか、土肥実平の短い通信のうちにも、その状況は、眼に見えるようである。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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