厳島の有ノ浦、おなじ島の多々羅ノ磯、また能美島や、あちこちの島蔭から、船出する帆が、たまなく、周防灘
の方へ、かすんで行った。 寿永四年の二月もすぎ、春は三月にはいっていた。 「ああ、これで佐伯さえきの
景弘かげひろ の、さいごの役目もすんだというもの。あとは一定いちじょう
、長門へ下って、御陣の端に加わるばかり」 神職の安芸守景弘は、地御前じごぜん
の浜から、一門の船を見送っていた。しばらくは、放心の姿だった。 さすが、ここ数日の神事やら、一門への心くばりに、疲れ果てた容子ようす
である。 だが館に休むまもなく、 「御油断はなりませぬぞ」 と、もう隣郡の物見から、早馬だった。 周防には、源氏の三浦義澄の一軍が、早くから、要所に兵を伏せている。 一門の船が、今日、厳島を離れて、長門へ下ったことを、もう三浦党は偵知しているらしい。 一門の船路へ、奇襲を計る惧おそ
れもある。三浦党の動きが、ただ事ではないという。 「いや、騒ぐには及ばぬ。あらかじめ、読めていたこと」 景弘は、陣触れして、二日の内に、配下の兵を、地御前じごぜん
の社頭に集めた。 そして、一同へ、 「われらは、平家の長き恩顧を忘れない。これより長門へ馳は
せ下って、彦島におわす権中納言どの (知盛) の下につき、及ばぬまでも、源氏へ一矢いっし
を報むく ゆる所存ぞ。── とは申せ、由来、佐伯一族は神職の家、合戦に欠けたればとて、卑怯ひきょう
とはいわれまい。残りたい者は、後に残れ。ただ心ある者のみ景弘へ従えや」 と、告げわたした。 「ぜひ、お行くてまでも」 と、従軍を望んだ者は、およそ半数、六百人ほどだった。 景弘は、残る人びとへ、形見を頒わ
けて、 「われらが亡な
き後も、厳島は永劫とわ の残ろう。厳島のあるかぎり、平家の名と、故入道どの
(清盛) の夢見たまえる地上浄土の御遺業みわざ
も、波映なみば え長く朝夕に消ゆることはよもあるまい。お汝こと
らの仕える主が、たれに代ろうと、かしこの白砂に変りはないのだ。長く不断の御明みあか
しを守ってくれよ」 と、あとを頼んだ。 なお、たくさんな庫中の穀物や布や塩など、備品の物も、すべて先ごろの縫子ぬいこ
や領下の貧しい者に布施して、 「もはや、思い残すことはない」 と、子の景信や一族の者どもと出陣の式を挙げ、翌早朝に、陸路、岩国を経、西へ急いで行った。 彼の出陣は、いかにも神職の人らしく、すがすがと、見えたという。 それに。 人は彼が、平家の落ち目を見て、平家に背くような人物ではないとはかねがね信じていたが、しかし元来、神職の家である。一門参籠さんろう
の最後の任をすました後は、厳島にとどまって、じっと、在国しているものと思っていた。ところが、その富まで残る人びとに頒わ
けて、長門へ馳は せ下って行ったので、 「可惜あたら
、あのようなお人を二度見ることも出来ぬのか」 と、みな惜しんだということである。 それとまた、彼の長門ながと
下くだ りには、もひとつの功があった。 周防にいた三浦義澄の軍を牽制けんせい
して、義澄に、海上をうかがわせる隙を与えなかったことである。 もし、それがなければ、義澄はたちまち、檄げき
を飛ばして、みかどのお座船以下、一門の船群へたいして、及ばぬまでも、なんらかの奇襲、あるいは、邪さまた
げに出たかもしれなかった。 ── が、陸路、佐伯勢が、西へ行くという情報のため、それに備えているうち、一門の船は、何ごとにも遭あ
わず、周防灘を過ぎて行った。 そうして、遅々ちち
たる帆影はんえい の群は、幾日か後、赤間ヶ関を右舷うげん
に見、文字ヶ関を左に、長門ながと
と九州豊前の陸影のあいだを通って、まさに、玄界灘げんかいなだ
へ出ようとする海峡西端の一つの島 ── 彦島の蔭へその船影を続々と寄せ合った。 |