〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/18 (金) ひこ しま と り で (一)

厳島の有ノ浦、おなじ島の多々羅ノ磯、また能美島や、あちこちの島蔭から、船出する帆が、たまなく、周防灘すおうなだ の方へ、かすんで行った。
寿永四年の二月もすぎ、春は三月にはいっていた。
「ああ、これで佐伯さえきの 景弘かげひろ の、さいごの役目もすんだというもの。あとは一定いちじょう 、長門へ下って、御陣の端に加わるばかり」
神職の安芸守景弘は、地御前じごぜん の浜から、一門の船を見送っていた。しばらくは、放心の姿だった。
さすが、ここ数日の神事やら、一門への心くばりに、疲れ果てた容子ようす である。
だが館に休むまもなく、
「御油断はなりませぬぞ」
と、もう隣郡の物見から、早馬だった。
周防には、源氏の三浦義澄の一軍が、早くから、要所に兵を伏せている。
一門の船が、今日、厳島を離れて、長門へ下ったことを、もう三浦党は偵知しているらしい。
一門の船路へ、奇襲を計るおそ れもある。三浦党の動きが、ただ事ではないという。
「いや、騒ぐには及ばぬ。あらかじめ、読めていたこと」
景弘は、陣触れして、二日の内に、配下の兵を、地御前じごぜん の社頭に集めた。
そして、一同へ、
「われらは、平家の長き恩顧を忘れない。これより長門へ せ下って、彦島におわす権中納言どの (知盛) の下につき、及ばぬまでも、源氏へ一矢いっしむく ゆる所存ぞ。── とは申せ、由来、佐伯一族は神職の家、合戦に欠けたればとて、卑怯ひきょう とはいわれまい。残りたい者は、後に残れ。ただ心ある者のみ景弘へ従えや」
と、告げわたした。
「ぜひ、お行くてまでも」
と、従軍を望んだ者は、およそ半数、六百人ほどだった。
景弘は、残る人びとへ、形見を けて、
「われらが き後も、厳島は永劫とわ の残ろう。厳島のあるかぎり、平家の名と、故入道どの (清盛) の夢見たまえる地上浄土の御遺業みわざ も、波映なみば え長く朝夕に消ゆることはよもあるまい。おこと らの仕える主が、たれに代ろうと、かしこの白砂に変りはないのだ。長く不断の御明みあか しを守ってくれよ」
と、あとを頼んだ。
なお、たくさんな庫中の穀物や布や塩など、備品の物も、すべて先ごろの縫子ぬいこ や領下の貧しい者に布施して、
「もはや、思い残すことはない」
と、子の景信や一族の者どもと出陣の式を挙げ、翌早朝に、陸路、岩国を経、西へ急いで行った。
彼の出陣は、いかにも神職の人らしく、すがすがと、見えたという。
それに。
人は彼が、平家の落ち目を見て、平家に背くような人物ではないとはかねがね信じていたが、しかし元来、神職の家である。一門参籠さんろう の最後の任をすました後は、厳島にとどまって、じっと、在国しているものと思っていた。ところが、その富まで残る人びとに けて、長門へ せ下って行ったので、
可惜あたら 、あのようなお人を二度見ることも出来ぬのか」
と、みな惜しんだということである。
それとまた、彼の長門ながと くだ りには、もひとつの功があった。
周防にいた三浦義澄の軍を牽制けんせい して、義澄に、海上をうかがわせる隙を与えなかったことである。
もし、それがなければ、義澄はたちまち、げき を飛ばして、みかどのお座船以下、一門の船群へたいして、及ばぬまでも、なんらかの奇襲、あるいは、さまた げに出たかもしれなかった。
── が、陸路、佐伯勢が、西へ行くという情報のため、それに備えているうち、一門の船は、何ごとにも わず、周防灘を過ぎて行った。
そうして、遅々ちち たる帆影はんえい の群は、幾日か後、赤間ヶ関を右舷うげん に見、文字ヶ関を左に、長門ながと と九州豊前の陸影のあいだを通って、まさに、玄界灘げんかいなだ へ出ようとする海峡西端の一つの島 ── 彦島の蔭へその船影を続々と寄せ合った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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