〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/18 (金)  びきやく (四)

時実は、すこし落ち着いた。
と同時に、こみあげかかる涙を、こら えながら、
「桜間ノ介というか」
御意ぎょい にござりまする」
其許そこもと は、屋島にて、敵の義経へ、降参したと聞いておるが」
「相違ございませぬ」
「では、義経の密命など受けて、その後また、まぎ れ帰っていたものか」
「お察しの通りです。判官ほうがん どのには、ひたすら、神器の無事と、みかどの御安泰をお念じあって、たれぞ、平家のうちに、腹を割って話し合える人もなきやと、密かに求めておられるのです」
「え、そ、それはまこと か」
「もし大理どの (時忠) の御直書を賜るなれば、それがし、相互のおん仲に立って、いかなる秘事も守り、犬馬の労もいといますまい。神の照覧あれ、この一言に、嘘偽りはございませぬ
「ちと、待たれい」
時実は、うしろの菅簾すがすだれ を少し揚げて、
「── お目覚めらしい御様子。父上にも、桜間ノ介の今の言葉、それにてお聞きでございましょうか」
と、次の囲いをうかがった。
「うむ、聞いた」
時忠の声である。
彼も起きていたらしい。そこへ姿を見せ、
「── はて、待ち久しいことだった。いつかは、九郎の殿から、この時忠へ、何かの便りはあらんと、心待ちしていたところぞ。果たして、お使いよの」
と、予期していたもののように言い、
「民部どのの弟、これへ」
と、さしまねいた。
八島以後は、耳目を覆われていたようなものだが、時忠には、ここにいても、源氏の動き、次の作戦、そしてとう の義経が、もっとも悩んでいるところも、 の筋を読むように知っていた。
「今となっては、源氏ははるかに平家より強い。水軍さえも平家より優位であろう。したが、勝ったればとて、神器を失い、みかどや、女院までを、うしな し奉らば、院のお旨にそわぬ仕儀となり、勝ちも勝ちにならぬのみか、それをよい口実に、鎌倉の譴責けんせき が、九郎の殿にくだ ることは目に見えておる」
時忠は、一気に言った。
「さればこそ、判官殿が、このさい、この時忠を思い出さぬはずはないが ── と密かに期していたわけだ。・・・・桜間ノ介とやら、あらまし、時忠の腹は、まずこうぞ。ところで、そちの腹は、さてどうぞ。打ち割ったところを申せ」
「まこと、御明察のごとく、神器をつつがなく都へ還し奉らではと、判官どのにも、いたく御苦慮のていに見えられまする。── で、もし大理どののお手引きにて、神器を源氏方へお渡し給うならば、いかなる条件も、容れ申すべしとの、お心ぐみにござりますが」
「もとより、当方にも、条件はある。── それを れるならばのことだ」
「御直書を賜りませ。桜間ノ介が、ひそかに、お伝え申し、判官どのより、しかと、お約束の墨付すみつき をいただいてまいりまする」
「が、九郎の殿は、時忠が、かかる牢船ろうせん押籠おしこ められているとは知るまい」
「御存知ではございますまい」
「今、この有様では、時忠とて、どうにもならぬよ。はははは」
と軽くうっちゃって、
「おそらく、次の長門ノ浦では、源氏も水軍を率いて、平家も得意の水軍陣を き、稀有けう な大決戦と相なろう。この時忠が起つのもその日。・・・・それまでに、もいちど、義経どのの返答を、しかと、聞いてまいるように」
「心得まいた」
「委細は、書中に封じておく。 ── 時実、すずり を」
「は」
時実は反射的に答えたものの、ここに、硯はおかれたなかった。
すると、桜間ノ介が、すぐ懐硯ふところすずり を取り出して、時忠の前に供えた。
時忠は、筆を って、敵へ内応の書簡を書いた。
── 機を計って、内応しよう。もちろん、神器奪取の手引きも誓う。しかし、それにはと、彼は、幾つかの、希望の項目を、書き並べた。
そして、この条件は、最小限のものである。もしかな わぬばあいは、時忠の不明、一門と死を共にして、あの世の入道殿 (清盛) びる所存 ── と、書き結んだ。
── 思い出せば、彼と義経とは、尽きない奇縁もある。
しかし今は、そんな過去には、みじんも、書簡の中で、ふれていない。
やがて、桜間ノ介は、時忠の密書をふところに、またそっと、牢船の底から這い出して行った。
まだ夜は明けていない。番士らは、寝くたれていた。とも の端からするすると小舟へ降り、彼の影は、黒い波間を櫓音ろおと もさせず、どこへともなくかき消えた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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