時実は、すこし落ち着いた。 と同時に、こみあげかかる涙を、怺
えながら、 「桜間ノ介というか」 「御意ぎょい
にござりまする」 「其許そこもと
は、屋島にて、敵の義経へ、降参したと聞いておるが」 「相違ございませぬ」 「では、義経の密命など受けて、その後また、紛まぎ
れ帰っていたものか」 「お察しの通りです。判官ほうがん
どのには、ひたすら、神器の無事と、みかどの御安泰をお念じあって、たれぞ、平家のうちに、腹を割って話し合える人もなきやと、密かに求めておられるのです」 「え、そ、それは真まこと
か」 「もし大理どの (時忠) の御直書を賜るなれば、それがし、相互のおん仲に立って、いかなる秘事も守り、犬馬の労もいといますまい。神の照覧あれ、この一言に、嘘偽りはございませぬ 「ちと、待たれい」 時実は、うしろの菅簾すがすだれ
を少し揚げて、 「── お目覚めらしい御様子。父上にも、桜間ノ介の今の言葉、それにてお聞きでございましょうか」 と、次の囲いをうかがった。 「うむ、聞いた」 時忠の声である。 彼も起きていたらしい。そこへ姿を見せ、 「──
はて、待ち久しいことだった。いつかは、九郎の殿から、この時忠へ、何かの便りはあらんと、心待ちしていたところぞ。果たして、お使いよの」 と、予期していたもののように言い、 「民部どのの弟、これへ」 と、さしまねいた。 八島以後は、耳目を覆われていたようなものだが、時忠には、ここにいても、源氏の動き、次の作戦、そして当とう
の義経が、もっとも悩んでいるところも、掌て
の筋を読むように知っていた。 「今となっては、源氏ははるかに平家より強い。水軍さえも平家より優位であろう。したが、勝ったればとて、神器を失い、みかどや、女院までを、亡うしな
し奉らば、院のお旨にそわぬ仕儀となり、勝ちも勝ちにならぬのみか、それをよい口実に、鎌倉の譴責けんせき
が、九郎の殿に下くだ ることは目に見えておる」 時忠は、一気に言った。 「さればこそ、判官殿が、このさい、この時忠を思い出さぬはずはないが
── と密かに期していたわけだ。・・・・桜間ノ介とやら、あらまし、時忠の腹は、まずこうぞ。ところで、そちの腹は、さてどうぞ。打ち割ったところを申せ」 「まこと、御明察のごとく、神器をつつがなく都へ還し奉らではと、判官どのにも、いたく御苦慮のていに見えられまする。──
で、もし大理どののお手引きにて、神器を源氏方へお渡し給うならば、いかなる条件も、容れ申すべしとの、お心ぐみにござりますが」 「もとより、当方にも、条件はある。──
それを容い れるならばのことだ」 「御直書を賜りませ。桜間ノ介が、ひそかに、お伝え申し、判官どのより、しかと、お約束の墨付すみつき
をいただいてまいりまする」 「が、九郎の殿は、時忠が、かかる牢船ろうせん
に押籠おしこ められているとは知るまい」 「御存知ではございますまい」 「今、この有様では、時忠とて、どうにもならぬよ。はははは」 と軽くうっちゃって、 「おそらく、次の長門ノ浦では、源氏も水軍を率いて、平家も得意の水軍陣を布し
き、稀有けう な大決戦と相なろう。この時忠が起つのもその日。・・・・それまでに、もいちど、義経どのの返答を、しかと、聞いてまいるように」 「心得まいた」 「委細は、書中に封じておく。
── 時実、硯すずり を」 「は」 時実は反射的に答えたものの、ここに、硯はおかれたなかった。 すると、桜間ノ介が、すぐ懐硯ふところすずり
を取り出して、時忠の前に供えた。 時忠は、筆を把と
って、敵へ内応の書簡を書いた。 ── 機を計って、内応しよう。もちろん、神器奪取の手引きも誓う。しかし、それにはと、彼は、幾つかの、希望の項目を、書き並べた。 そして、この条件は、最小限のものである。もし能かな
わぬばあいは、時忠の不明、一門と死を共にして、あの世の入道殿 (清盛) に詫わ
びる所存 ── と、書き結んだ。 ── 思い出せば、彼と義経とは、尽きない奇縁もある。 しかし今は、そんな過去には、みじんも、書簡の中で、ふれていない。 やがて、桜間ノ介は、時忠の密書をふところに、またそっと、牢船の底から這い出して行った。 まだ夜は明けていない。番士らは、寝くたれていた。艫とも
の端からするすると小舟へ降り、彼の影は、黒い波間を櫓音ろおと
もさせず、どこへともなくかき消えた。 |