〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/18 (金)  びきやく (三)

── と、とも りの、船底梯子ばしご の辺で、みしりと、人の気配がした。
船窓の外は、まだ暗い。
いつもの朝餉あさげ を運んで来る能登守の家来にしては、時刻も早すぎるが? ── と、時実がふと、起き直ってみると、そこの暗がりに、一人の武者らしき者の影が、じっと、こっちの灯影をうかがっている様子。
ぎょっとして、無意識に、
「たれだっ。そこへ降りて来たのは」
と、太刀を引き寄せた。
時実はつねに、食事も自分が先ず毒味してから父へ供えていた。と同じ用心の習性からすぐ 「── 刺客?」 と、今も、身の毛をよだてたのだった。
すると、男の影は、つつと、ひざがしらで六、七尺いざって来、そのまま両手をつかえて、
っ。お静かになされませ。上には、番の付人つけびと どもが、居眠っておりまする。お驚きは無理ならねど、何とぞ、お静かに」
「と申すそのほうは?」
追々おいおい 、申しましょうが、なにを申し上げても、お疑いが先ではお胸にもはいりますまい。まず。これを」
と、男は一通の結び文を差し出した。
“── 讃岐さぬき どのへ。そつ より”
とある。
時実は、はっとして、
「さては、母の御のお使いか」
と、それを手に、もいちど、男を見直した。
男は、小具足姿、顔には、半首はつぶり をつけていた。
結び文は、母のそつつぼね の筆にまちがいない。

くわしいことは今、書いているひまもなけれど、この文を携えたるは、阿波あわの 民部みんぶ どのが弟、桜間さくらますけ 能遠よしとお という者。
御疑念なく、何ごとも、お語らい給われかし。
御一門浮沈の日も、そぞろ寸前の心地。みかどや女院を助け奉るもの、今は、わが良人つま のほかにはあらじと、さいごのおん計り一つを、ただ神かけて祈っておりまする。

── と、いうようなふみ の内容であった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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