平家内部の血気な公達や侍大将たちの主戦派を
「── 児戯 の勇」 と視み
ている時忠にも、むかしは、彼自身、覇気はき
にみちていた時代もある。 六波羅、西八条の世盛りのころ、 “平家に非ずんば人に非ず ──” などと放言したものは、たれでもない、平関白へいかんぱく
時忠ときただ なり、という評判さえあったほどである。 ほんとは、彼の放言ではなく、平家の反感を煽あお
ろうとする者の捏造ねつぞう らしいが、それにせよ当時、時忠を呼ぶに、“平関白へいかんぱく”
という異名があったことは確かだった。 それほどな時忠が、今日の彼のように変わろうとは、子の時実さえ、意外であったことだろう。 去った遠い日を、かえりみてみると、 時忠の考えは、そもそも、清盛が死んだ頃から、どことなく、違って来ていた。 清盛の大きな死に会って、彼のみが、そのころから、ほんとに平家の行く末を、案じていたのかもしれない。 清盛の死後、たちどころに起こった木曾勢の入洛やら鎌倉の攻勢などにも、時忠はいつも、政治力によってのみ、解決を計ろうと努めて来た。──
そして、そもころから、彼の姿は、まったく一門の蔭にひそみ、平家の表面には、とんと立たなくなっていた。 彼が、表面に出なくなった理由は、彼の意志でも逃避でもない。──
かれのそういう方針が、以後の平家一門に、容い
れられなかったからである。 総領の宗盛始め、公達の多くは、故清盛や時忠などが舐な
めて来た貧乏平氏時代の辛酸や、地下ちげ
のころの誓いなどは、もうみな忘れていた。いや知らなかったと言ってよい。 なにひとつ、苦労も知らず、栄花の門に育はぐく
まれてきながら、 「なんの、たかが東国の草賊ばら」 と、思い上がっていた果てが、ついに一門都落ちのやむなきにいたり、一ノ谷、屋島と、みじめな流亡をつづける結果とはなったのだ。 「父には、この日の来ることが、すでに、早くから分かっていたのであろうか」 ──
今宵も、時実は、ふと夜半に眼をさますと、とまるところのない妄念もうねん
にとらわれて、 「壮年の頃は、人いちばい、勝気な父が、よくもこの忍辱にんにく
に耐えているもの」 と、隣の莚むしろ
を、そっと、木枕からうかがってみた。 船底は、二つに、区切られている。 その境に、菅莚すがむしろ
が垂れてあった。 時忠の寝すがたは、いつもの夜と変りはない。 薄い夜具よのもの
を引き被かず き、木枕さえ、垢あか
じみて見える。小さい灯の下に、四、五冊の漢書と、一腰の太刀が置かれてあるだけだった。 これが、かつては、平関白へいかんぱく
と言われた父か。 母の 帥そつノ局つぼねも、みかどの乳人めのと
として、ほとんど、父の側には侍かしず
いていられない。 父には、自分のほか、あの二人の子があるのだ。 ひとりは弟の右大弁うだいべん
時宗ときむね だが、時宗は後白河の近臣で、以後の便りも打ち絶えてている。 また、もう一人の妹の夕花は、都落ちの前夜、時宗の手許に預けて来たのである。 泣く泣く生き別れして来たあの夕花も
── さて、どうしているか。 「・・・・ぜひないことを。もう、思うまい」 時実は、眠ろうと努めた。 |