強硬な味方の一派から
「── 二心の色あるお人」 という極印を打たれ、病でもないのに病にされて、ていよく、大船の底に軟禁されていた平大納言時忠の牢船
は依田島 (江田島) の浦につながれていた。 浦には、その一艘のほか、大小数十の兵船が、厳島いつくしま
参籠さんろう 中の一門を待っていた。 というよりも、平大納言を監視するためと言った方がいいかも知れない。──
なぜなら、依田島の供待ち組みは、みな能登守直属の将士であった。そして、その牢船とほかの往来は、味方内でもかたく禁じられている。 が、いかに二心顕然けんぜん
たるお人と見ても、ほかならぬ平家の長上たる大理殿だいりどの
だ。宗盛でも能登守でも、手の下しようもないらしい。── で、戦のすむまで、こうしておこうという一派の算段らしいのであった。 もっとも、時忠自身が、 「おれは病人ではない、病人にあらざるものを」 と、憤りを発して自身の自由を求めれば、彼の権威は、苦もなくその自由を持つにちがいない。 ──
が、その代わりには、当然、内輪の違和が表面化しよう。 平家は、四分五裂を、まぬがれない。 それも血を見ずにすむならばだが、敵との戦いが、転じて、味方同士の血みどろと化すのは余りにも明らかだった。 いわゆる自戒自滅というものだ。救いもない、人らしさもない、終わりを終わりを遂げてしまわねばなるまい。そして平家の何が残るか。残るのは世の笑草だけである。──
その後になって和を言い出しても、和を言う資格もある平家ではなくなってしまう。 「愚だ。── みすみすそんなばかも出来ぬ」 時忠は、そもそも、能登守と争いかけた最初から、嫡男の讃岐中将時実にも、そう観念させて来たのである。 ろくに陽ひ
の目も見ない船底暮らしを、今、ともにしているその時実へ、夕べも、彼は、 「何せい、味方の主なる者は、みな乳ち
くさい公達ぞろい。能登守は二十六、内大臣おおい
の殿との (宗盛)
さえ三十九。子ども相手に、喧嘩もなるまい。子どものしていることと思えば腹も立たぬし、やがて思い知る時も来よう。怺こら
えぞ。何事も、ここは怺えぞ」 沁々しみじみ
、言ったことだった。 大人の思慮というものか。時実には、そう取っているしかない。 「父は大人よ・・・・」 と、自分もならって、いたずらな焦慮には、疲れまいと思った。 しかし、時忠は、夜も熟睡するらしいが、若い時実の方は、ややもすると、目覚めがちであった。船底の木枕に、深夜、幾度も寝返りしては、 「あすは、どうなることか。どうなる平家か」
を、夜もすがら悩まずにはいられなかった。 |