この夜は、はしなくも、一門のもつれが、酒興をかりて、ふと、表面に出た。 もっとも、事の起こりは、何も知らない景弘の口からであった。──
景弘が、 「ここに、平大納言どのがおはさむは、なにやら歯の抜けたような。・・・・いかなるわけのお引籠
りか、お迎えの舟をやって、せめて、今宵だけは、御一門欠けるなく、おそろいあっては」 と言ったのが、緒いとぐち
だった。 二位ノ尼は、たれの眼にも、すぐ映ったほど、反射的に 「・・・・おう、ほんに」 と、よろこびを、眼もとの辺に、ただよわせた。 が、隣にいた、総領の宗盛は、いやな顔をした。露骨にその面おもて
をそむけて、 「のう、能登どの、和殿は酒好き、その酒好きが、慎つつし
みおる様、見る眼もわびしい。こよいは、思うざま、飲の
うだがよい」 と、景弘の言葉を、そら耳にした。 能登守教経も、当然、ここで平大納言を思い出すのは、うれしくない。 そして、そのことには、たれにも容喙ようかい
してもらいたくなかったから、 「おう、内大臣おおい
の殿との が、ああ仰せられる。さらば、今生の思い出に」 と、すぐ大杯を求めて、傾け出した。 彼の大酒は、若年からのものである。平家きっての、酒のみといってよい。したたかに飲や
ると、やがては、青白くなって、乱らん
になる惧おそ れもある。──
で陣中では、みずから固く慎んでいたのだった。 「はて、内大臣おおい
の殿が、いらぬことをば」 人びとは、教経の飲み振りにばかり、はらはらしていたが、以外にも、思いがけない人の方が、彼よりは、酔いこじれていた。 「はあて、ここに置けぬ女房が、女房たちの中に一人交じって見える。あら、眼ざわりな」 にわかに、こう言い出したのは、宗盛であった。末の方にいた女房の一人を、きっと睨ね
めつけて、 「あの女、ここを立たせい」 と、侍大将の座へ命じた。 宗盛に、指さされた女性は、さっと血の色を顔から退ひ
いてうつ向いた。元、田辺たなべ
の湛増たんぞう の愛妾あいしょう
さくらノ局であった。宗盛は、いまもって、さきの遺恨を、忘れていない。 この女なかりせば、湛増にだまされ、屋島の不覚も、あんなにまで、みじめではなかったろうにと、ひとみに、憎しみをこめて、言ったのであった。 ──
と、二位ノ尼が、 「いえ、なりません。さくらノ局は、桜町中納言のわすれがたみ、あわれな女子おなご
、まして、この尼にも、身寄りの者じゃ。なんでここを立てと仰っしゃるか。さりとは、いつまでも愚痴な殿かな。心のせまい内大臣おおい
の殿との ではあるよ」 と、わが子の言を、いつになく、母の位置から、しりぞけた。 尼の身にとれば、この一事だけでなく、弟の平大納言時忠についての悩みやら、その処置への不平なども、人知れず、怏々おうおう
と、日ごろ、胸につかえていたに違いない。 それらが、あわせて、つい口へ出たものだろう。 宗盛は、黙ったが、しかし腹はおさまらない。杯が早くなった。そしてまた、ぶつぶつ口ごたえをムシ返し始めたので、尼もまた、 「屋島の敗れは、ひとえに、総大将たるあなたが、うろたえの余り、よい、おさしずもできなっだのが、総崩れの因もと
、ほかのたれの科とが でもない。──
それを、戦の負けは、ひとのせいのように思うておられることからして、一門の御総領ともいえぬ愚かさ。すこしは、わが身を恥じたがよい」 と、きつく、たしなめた。 そのまま、ことばが断き
れたのは、尼もまた、わが身を責めて、心をふるわせているふうだった。悴然すいぜん
と、ことばをつづけて ── 「ああ、わらわも、愚痴になっやわのう。もし、わが良人つま
(清盛) がおいでたら、どうお顔向けができようぞ。こう沁々しみじみ
と語る夜も、おそらくは、今宵ぐらいなものであろう。それゆえ、今こそ、実じつ
を打ち明けるが、宗盛どのこそは、まこと、入道にゅうどう
どののお胤たね でもなく、わらわの産んだ子でもない。──
むかし、清水坂の唐笠法橋からかさのほっきょう
といえる法師商人あきゆうど の子なりしぞや。・・・・さればこそ、父君の大相国だいしょうこく
とは片鱗へんりん だにも似たまわず、おん兄の小松内府どのとは雲泥のおちがいよ。・・・・とはいえ、それもこれも尼が若きころの、いたらぬ心から生じたことで、思えば申し訳ないことではあった。・・・・今さらなれど、亡な
き良人つま へも、御一門へも、こうお詫わ
びしますぞや」 尼は、白い絹の中へ、顔をうずめた。 |