〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/14 (月) 似 も し 給 わ ず (一)

この夜は、はしなくも、一門のもつれが、酒興をかりて、ふと、表面に出た。
もっとも、事の起こりは、何も知らない景弘の口からであった。── 景弘が、
「ここに、平大納言どのがおはさむは、なにやら歯の抜けたような。・・・・いかなるわけのお引籠ひきこ りか、お迎えの舟をやって、せめて、今宵だけは、御一門欠けるなく、おそろいあっては」
と言ったのが、いとぐち だった。
二位ノ尼は、たれの眼にも、すぐ映ったほど、反射的に 「・・・・おう、ほんに」 と、よろこびを、眼もとの辺に、ただよわせた。
が、隣にいた、総領の宗盛は、いやな顔をした。露骨にそのおもて をそむけて、
「のう、能登どの、和殿は酒好き、その酒好きが、つつし みおる様、見る眼もわびしい。こよいは、思うざま、 うだがよい」
と、景弘の言葉を、そら耳にした。
能登守教経も、当然、ここで平大納言を思い出すのは、うれしくない。
そして、そのことには、たれにも容喙ようかい してもらいたくなかったから、
「おう、内大臣おおい殿との が、ああ仰せられる。さらば、今生の思い出に」
と、すぐ大杯を求めて、傾け出した。
彼の大酒は、若年からのものである。平家きっての、酒のみといってよい。したたかに ると、やがては、青白くなって、らん になるおそ れもある。── で陣中では、みずから固く慎んでいたのだった。
「はて、内大臣おおい の殿が、いらぬことをば」
人びとは、教経の飲み振りにばかり、はらはらしていたが、以外にも、思いがけない人の方が、彼よりは、酔いこじれていた。
「はあて、ここに置けぬ女房が、女房たちの中に一人交じって見える。あら、眼ざわりな」
にわかに、こう言い出したのは、宗盛であった。末の方にいた女房の一人を、きっと めつけて、
「あの女、ここを立たせい」
と、侍大将の座へ命じた。
宗盛に、指さされた女性は、さっと血の色を顔から退 いてうつ向いた。元、田辺たなべ湛増たんぞう愛妾あいしょう さくらノ局であった。宗盛は、いまもって、さきの遺恨を、忘れていない。
この女なかりせば、湛増にだまされ、屋島の不覚も、あんなにまで、みじめではなかったろうにと、ひとみに、憎しみをこめて、言ったのであった。
── と、二位ノ尼が、
「いえ、なりません。さくらノ局は、桜町中納言のわすれがたみ、あわれな女子おなご 、まして、この尼にも、身寄りの者じゃ。なんでここを立てと仰っしゃるか。さりとは、いつまでも愚痴な殿かな。心のせまい内大臣おおい殿との ではあるよ」
と、わが子の言を、いつになく、母の位置から、しりぞけた。
尼の身にとれば、この一事だけでなく、弟の平大納言時忠についての悩みやら、その処置への不平なども、人知れず、怏々おうおう と、日ごろ、胸につかえていたに違いない。
それらが、あわせて、つい口へ出たものだろう。
宗盛は、黙ったが、しかし腹はおさまらない。杯が早くなった。そしてまた、ぶつぶつ口ごたえをムシ返し始めたので、尼もまた、
「屋島の敗れは、ひとえに、総大将たるあなたが、うろたえの余り、よい、おさしずもできなっだのが、総崩れのもと 、ほかのたれのとが でもない。── それを、戦の負けは、ひとのせいのように思うておられることからして、一門の御総領ともいえぬ愚かさ。すこしは、わが身を恥じたがよい」
と、きつく、たしなめた。
そのまま、ことばが れたのは、尼もまた、わが身を責めて、心をふるわせているふうだった。悴然すいぜん と、ことばをつづけて ──
「ああ、わらわも、愚痴になっやわのう。もし、わが良人つま (清盛) がおいでたら、どうお顔向けができようぞ。こう沁々しみじみ と語る夜も、おそらくは、今宵ぐらいなものであろう。それゆえ、今こそ、じつ を打ち明けるが、宗盛どのこそは、まこと、入道にゅうどう どののおたね でもなく、わらわの産んだ子でもない。── むかし、清水坂の唐笠法橋からかさのほっきょう といえる法師商人あきゆうど の子なりしぞや。・・・・さればこそ、父君の大相国だいしょうこく とは片鱗へんりん だにも似たまわず、おん兄の小松内府どのとは雲泥のおちがいよ。・・・・とはいえ、それもこれも尼が若きころの、いたらぬ心から生じたことで、思えば申し訳ないことではあった。・・・・今さらなれど、良人つま へも、御一門へも、こうお びしますぞや」
尼は、白い絹の中へ、顔をうずめた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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