〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/14 (月) ふう ぜん せん どう (二)

いよいよ、明日はここも船出。そして、長門へ向かわんというその前夜だった。
「さだめし、お疲れにて候わん。せめて、今宵のみはお内輪にて、くつろがせ給え」
と、佐伯さえきの 景弘かげひろ 、景信の父子が、あいさつに出た。
自分たち父子も、三日にわたる神職の任をすませ、ほっとしたことなのであろう。広やかな一殿いちでん に、最後の饗宴きょうえん を張り、一門の男女をなぐさめたのである。
人びとは、景弘父子の変わらない誠意に打たれて 「かたじけない」 「── 忘れはおかぬ」 とひとしく、心からなあいさつを返した。
この数日間に、佐伯景弘がしめぢた好意は、なみたいていなものではない。
神職の仕えは、当然であったが、こよい、一門の男女が、みな、昔日せきじつ の人のように、髪、化粧、服装まで、すべて美しくしているのは、景弘のおかげであった。
なにしろ一門の人は、屋島ではあの風水害と敵襲にあい、以後の海上では、幾日も幾日も、ほとんど、着のみ着のままのていであった。
長い船路でも、武者ばら は、潮を汲みあげて、体を洗いもするが、女性にょしょう たちは、船での湯浴ゆあ みなど、思いもよらぬことでしかない。
襟に目だつあか 、髪にすえる匂い、 の汚れ、みじめさは、女性の姿に一そうひどい。わけて、二位ノ尼は、潔癖なたちである。自身も、それには耐えられぬようであったが、みかどや女院の身まわりには、どれほど、彼女の苦労があったか知れないのである。
景弘は、早くも、地御じご ぜん土倉つちぐら を開いて、およそ蓄えの織物や布地のたぐい は、すべてこれを大勢の土地の縫女ぬいこ に裁ち切らせた。そして 「夜を日についで、縫い上げよ。── 褒美ほうび には、そちたちが、手にしたこもないほどな物を取らすぞよ」 と、励まし、それぞれに寸法書きを渡して かせた。
肌着、よろい下、小袖こそで 、はばきの類から、あらゆる男女の衣服を新たに仕立てさせたのである。
元来、佐伯家の倉は豊だった。織物にしてもそう舶載物はくさいもの さえ少なくない。蜀江しょっこうあや浮文うきもん金襴きんらん などの種々くさぐさ は、諸将のよろい直垂ひたたれ に、また狩衣かれぎぬ や小袖に縫われ、白絹は、尼や女院の肌着に たれた。── 女性たちにとっては。どんなにありがたかったことか知れまい。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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