いよいよ、明日はここも船出。そして、長門へ向かわんというその前夜だった。 「さだめし、お疲れにて候わん。せめて、今宵のみはお内輪にて、くつろがせ給え」 と、佐伯
景弘かげひろ 、景信の父子が、あいさつに出た。 自分たち父子も、三日にわたる神職の任をすませ、ほっとしたことなのであろう。広やかな一殿いちでん
に、最後の饗宴きょうえん を張り、一門の男女をなぐさめたのである。 人びとは、景弘父子の変わらない誠意に打たれて
「かたじけない」 「── 忘れはおかぬ」 とひとしく、心からなあいさつを返した。 この数日間に、佐伯景弘がしめぢた好意は、なみたいていなものではない。 神職の仕えは、当然であったが、こよい、一門の男女が、みな、昔日せきじつ
の人のように、髪、化粧、服装まで、すべて美しくしているのは、景弘のおかげであった。 なにしろ一門の人は、屋島ではあの風水害と敵襲にあい、以後の海上では、幾日も幾日も、ほとんど、着のみ着のままのていであった。 長い船路でも、武者輩ばら
は、潮を汲みあげて、体を洗いもするが、女性にょしょう
たちは、船での湯浴ゆあ みなど、思いもよらぬことでしかない。 襟に目だつ垢あか
、髪にすえる匂い、裳も の汚れ、みじめさは、女性の姿に一そうひどい。わけて、二位ノ尼は、潔癖なたちである。自身も、それには耐えられぬようであったが、みかどや女院の身まわりには、どれほど、彼女の苦労があったか知れないのである。 景弘は、早くも、地御じご
前ぜん の土倉つちぐら
を開いて、およそ蓄えの織物や布地の類たぐい
は、すべてこれを大勢の土地の縫女ぬいこ
に裁ち切らせた。そして 「夜を日についで、縫い上げよ。── 褒美ほうび
には、そちたちが、手にしたこもないほどな物を取らすぞよ」 と、励まし、それぞれに寸法書きを渡して急せ
かせた。 肌着、よろい下、裳も
、小袖こそで 、はばきの類から、あらゆる男女の衣服を新たに仕立てさせたのである。 元来、佐伯家の倉は豊だった。織物にしても宋そう
の舶載物はくさいもの さえ少なくない。蜀江しょっこう
、綾あや 、浮文うきもん
、金襴きんらん などの種々くさぐさ
は、諸将のよろい直垂ひたたれ
に、また狩衣かれぎぬ や小袖に縫われ、白絹は、尼や女院の肌着に裁た
たれた。── 女性たちにとっては。どんなにありがたかったことか知れまい。 |